- 世界に触れる

2012/02/17/Fri.世界に触れる

「より良く生きる」ことを考える前に、少し議論しなければならないことがある。そもそも「考える」とは何か。

「科学は私が世界を認識する方法の一つである」と書いた。私が世界を認識する方法は他にもある。例えば聴覚や視覚である。では、科学(の基盤となる論理的な思考)と視覚は何が異なるのか。いや——、そもそも同じなのではないか……ということを妄想している。

太古の海中で、核酸やタンパク質が脂質の膜に覆われたときから、私と世界は隔絶された。私は世界を認識しなければならぬ。でないと、私が世界になってしまい、私は消滅してしまう。私の成立には、世界からの分離と同時に、世界を認識することが必要である。でないと、ペットボトルに入った水ですら私を保持することになってしまう。

細胞は世界を認識するために様々な受容体を発達させた。そして、進化とともに世界の認識手段を増やしていった。ヒトでいうなら、嗅覚、味覚、触覚、聴覚、視覚などである。これらの感覚が受容する刺激は脳で処理される。特に重要なのは、複数の刺激が統合される点であろう。「あの音を出したのはアイツだ」という具合である。ここに因果把握の原始的な萌芽を見たとしても、あながち誤りではあるまい。

我々は今や論理的思考が脳の産物であることを疑いもなく受け入れているが、なぜ脳なのかという素朴な疑問に答えるのは意外と難しい。しかし上記の想像を発展させると、脳が論理の受容体であることを説明できる。

ところで、動物が一般的に持つ感覚は現状認識のためのものである。やや高等な動物になると、明確な記憶を持つようになる。これは過去の認識である。そして、論理的な思考は未来の認識を可能にする。これは論理(を基盤とする科学)の特徴である。

すなわち、論理的思考は別に高尚なものではなく、より遠くが見えるように視覚が発達し、より小さな音が聴こえるように聴覚が進化したように、より離れた時間軸上のことまで考えられるように生じた、いわば論理覚ともいうべき知覚の一種に過ぎないのではないか。だから神経系で処理されるわけである。

我々が、論理を論理的に考えているという証拠はない。特定の波長が特定の色として知覚されるように、特定の論理刺激に対して特定の論理的帰結が「自動的に」提出されているという可能性はある。「自然が論理的なのではなく論理が自然的なのである」というのはそういう意味である。

そう考えると、個々人で論理的認識に差異があるのはむしろ当然のことで、視力の良い人もいれば悪い人もいるのと大きな違いはない。赤緑色覚異常は男性に多いが(opsin 遺伝子が X 染色体上にあるため)、例えば、論理的認識に関して臨床的に得られている性差(例えば数学者・物理学者は圧倒的に男性が多い)も同様の遺伝的な原因による可能性は否定できない。

もう一ついうなら、視力の良さと視覚の鋭さは別の概念である。同じものを見ても、訓練を受けた者のみが微妙な違いを「見分けられる」。聴覚も同様である。聴き取れることと、聴き分けられることは別である(ベートーベン!)。知覚はトレーニングによって鋭敏にすることができるが、論理覚に対する訓練は一般的に教育と呼ばれる。

論理刺激に対して論理的帰結をできるだけ速く、自動的に提出できるようにするのが文明の目指したところだとすれば、その達成度が高まるつれ、逆説的に「考える」という行為から遠ざかる。これは言説の自動化とも深く関係する問題である。このような自動化を注意深く排除する営みが「考える」という行為の本質ではないか。「考えてもみなかった」現象や法則の発見が科学を大きく前進させてきたのはそのためである。

「科学をするのはよりよく生きるためである」という言葉の意味にだいぶ近付いてきた。自動化された認識にできるだけ頼らずに考えること、これはすなわち、私と世界が一対一で対峙することに他ならない。