- 私は私の生を生きる

2012/02/15/Wed.私は私の生を生きる

なぜ科学をするのか、というのは俺にとって大切な問いである。平たく言えば「より良く生きるため」なのだが、なぜ「より良く」生きねばならぬのか、そもそも「生きる」とは何かという大問題がある。この疑問を解くために生物学を経て再び科学に戻ってくるという循環が形成されるのだが、もちろんそれで全てが片付くわけではない。より良く生きようとしているのはあくまで「俺」であり、一人称で語られる以下の諸々は科学の範疇に入らないからである。

私とは「生きている私」に他ならないと書いた。また、私は生きている限り死なないとも書いた。「私は私の死を死ぬ」という言葉があるが、やはり違和感を覚える。敢えて言うなら、「私は私の生を生きる」であろう。このような能動的な生き方の中にこそ私が宿るのではないか。

繰り返しになるが、「生きている」ことは私の必要条件であるが充分条件ではない。生きているが私ではない状態の例として脳死を挙げた。同様に、大腸菌は生きているが「私」を持たない。彼らは生きているが、生きようとはしていないだろう。

犬はどうか。「犬は犬の生を生き」ているだろうか。そのように見えなくもない。少なくとも否定はできない。彼らが彼らの生を生きている、つまり「私」を保持していることの傍証として、我々と彼らの間にはコミュニケーションが成立するという点を指摘しておきたい。コミュニケーション(敵対感情も含む)を「私と私の通信」と定義するなら、人間とコミュニケーションが成り立つ動物は「私」を持っているのではないかと推測できる。

(コミュニケーションについてはまた別途論じる必要がある。例えば、我々と蟻の間にはコミュニケーションが成立しない。蟻には「私」がないのであろう。しかし、互いに争っている蟻と蟻、あるいは助け合って社会を形成している蟻たちの間にはコミュニケーションが成立しているように見える。ある蟻は別の蟻をどのように、しかも「私」抜きで、認識しているのだろうかという疑問は残る)

まとめると、「生きているものが生きようとする過程で私が芽生える」のではないかと考えられる。「より良く生きる」のはそのさらに高次の段階である。道徳という名の恫喝を受けて実行するものではない。

では——、「良い」とはどういうことであろうか。それが「良い」とどのように判断するのであろうか。それについてはまた別に書いてみたいと思う。