- 伝達と選択

2011/07/01/Fri.伝達と選択

水曜の夜は、六月末で転職される室長の送別会が催された。獣医師である彼には動物実験を中心に大変お世話になった。僅々三ヶ月でお別れしなければならないのは大変残念である。

話を変える。

「私が科学の限界を指摘できるのは、私が科学より広い世界を認識しているからに他ならない」。この logic は様々な事柄に適用できる。例えば「私が自己を啓発できるのは、私が自己より広い『私』を認識しているからに他ならない」など。これは一種の方便ではあるのだが、なかなか使い勝手が良いので愛用している。

「私が○○より広い世界を認識しているからに他ならない」という仮定は、私の内に、言語化されてはいないが既に「知っている」理論が存在することを示唆する。例えば勘がそうである。注意深い思索によって、これらを言語化することができるかもしれない。その際に活躍するのが自分言語であることは既に述べた。

しかし、そのようにして抽出された理論を他者に伝達しようとすると、しばしば摩擦が生じる。

科学でも自己啓発でも、その限界や是非についての議論は、つまるところ境界論争である。「どこまで言語化されているか」「どこまで言語化し得るか」——、問題はこの点に尽きている。この手の話題が大体において不毛であるのは、互いに勝手な自分言語を使い、しかもそれが相手に通じると錯覚しているからである。

我々にできるのは、他者に何かを伝達することではなく、他者に受容される可能性を期待しつつ自分言語によって表現することのみである。我々は、他者が既にその深層で「知っている」ことしか伝えられない。

果たしてそれは伝達といえるのだろうか。然り。Receptor を持つ細胞だけが ligand の信号を解する(そして介する)。このような文脈では、伝達(transmission)と選択(selection)はほぼ同義である

作家は読者を選び、読者は作家を選ぶ。古くから言われているこの文句は、その事実を端的に表している。