- 絵画的表現試論

2011/05/08/Sun.絵画的表現試論

絵画教室では体験講座のときに講師氏から、一回目の授業でアシスタント嬢から、何か描きたいものはあるかと問われた。

私が絵を習おうと決めたのは、「言語系・聴覚系への依存が少ない世界の理解の仕方」を体得せんがためである。油彩に挑戦したいのは、一度あの濃厚な油絵具をこねくり回して画布に塗りたくってみたいという子供っぽい願望の故である。しかし、そんな説明ができるはずもない。

少し話は逸れる。以下は以前より考えていたことである。

一つ。撮影装置がこれだけ進歩したにも関わらず、解剖学の教科書の多くは現在でも、写真ではなく写実的な絵によって臓器や組織を図示している。何故か。これは一度よく考えてみる価値がある。

二つ。私はこれまで、様々な培養細胞、動物の臓器やその切片、線虫やネズミといった生物個体を観察してきた。そして、それぞれに特有の美しさがあることも感じてきた。だが普通の人にとって、これらは別段美しくない(むしろ気味の悪い)ものであったり、それ以前に全く意味不明な像であったりするだろう。では何故、私はこれらの像=絵を美しいと感じるのか。それは、その背後に隠れている——見える人にはこの上なく明らかに「見えている」——秩序や構造を「知っている」からである。そう思われる。

(例えば、切片像はあくまで二次元だが、観察する研究者は頭の中で三次元の構造を再構成しているはずである。そして、彼が本質的に「見ている」のは後者である)

「見える」とは一体どういうことだろう。

二つ目の議論が示唆するのは、物理的な像が視野に結ばれることと、その意味や文脈が認識されることの間に存在する乖離である。知っていなければ見えない。この命題は恐らく正しい。では、「知らなくとも見える」あるいは「見ることによって知る」ことは可能だろうか。この設問に対する回答の一つが解剖学の教科書であるように思う。シャッターを切らずに絵筆を執る意義がここにあるのではないか。

私に見えているコト(≠モノ)を他者にも見えるようにすることが絵画的表現であるなら、私が興味・関心・知識を持ち合わせていない対象を描くことに大した意味はない。「描きたいものはあるか」という質問が発せられるのは当然といえよう。

と、ここまでは観念的な話である。それとは全く別に、最近、絵を描くという運動自体が純粋な肉体的快楽をもたらすことに気が付いた。

要するに、ただ線を引くだけで楽しいのである。これは、線が増えることによって段々と形が見えてくる——という高尚な歓びではない。もっと低次の享楽である。線を描く、塗りつぶすことそれ自体が愉悦をもたらすのである。闇雲に手を動かすことで陰影がおかしくなろうが形状に狂いが出ようが、知ったことではない。そういう気分になる瞬間が間違いなくあって、これは幼児の落書きを思い浮かべればよくわかる。

この経験から予感されるのは、私(のみ)が肉体的な快楽を感じるであろう絵画的表現の存在である。気持ち良くなりたいから描く、という動機があっても不思議ではない。個人的には、精密で細かい絵を描いてみたいという欲求があるのだが、これもどちらかといえば肉体的な要請だと思われる。この場合、モチーフの重要性は低い。

長くなった。一つ目の仮説についてはもう少し書きたいことがあるので、次の日記で触れることにする。