- Diary 2011/05

2011/05/22/Sun.

自宅のイーゼルに向かってデッサンの練習をするのは楽しいが、それなりの時間を確保せねばならず、いざ始める際にはパワーが要る。平日に行うのはなかなか難しい。もっと気楽に絵が描ける環境も作らねばと、小さめのスケッチブック(F3号)を購入したものの、それから後が続かぬ。

あれこれと考えて、落書きめいたもので良かろう、手軽に色を塗ることができれば楽しかろうと、固形の水彩絵具と水筆(スポイトの先が筆になっているような形状で、バケツに水を汲む必要がない)を手に入れた。耐水性のペンも必要だが、これはデッサン用の鉛筆セットに付属していた筆ペンを使うことにした。

とりあえず試し描き。絵具を使うのは何年ぶりだろうか。

固形水彩絵具試し描き

やはり色を塗るとテンションが上がる。絵具や筆については、いずれ絵に描いて紹介したいと思っている。

2011/05/21/Sat.

Dr. H

学部生だった私に Western blot を教えて下さった Dr. H と、およそ八年ぶりにお会いすることができた。出張で京都に来られていた Dr. が、わざわざ大阪まで足を運んで下さったのである。

あの頃と全く変わらぬ Dr. と梅田で落ち合い、中之島へ移動。旧淀川を眺められる店で真っ昼間からビールやワインを飲みつつ、近況や研究の話題を中心に喋りまくる。川沿いのテラスに移動し、なおもビールを傾ける。あっという間の楽しい時間であった。その上 Dr. からは、私が学位を取得した記念にと、素晴らしい名刺入れまで頂戴してしまった。

ありがとうございました。

絵画教室

絵画教室二回目。

円柱の石膏像のデッサンを行う。前回同様、デッサンスケールで輪郭を採り、ザクザクと陰影を付けていく。平面にはないグラデーションが要求されるが、所詮は円柱、丸く丸くと念じながら線を重ねていけばそれらしくなる。これは冗談ではない。

昼間のアルコールの余韻か、いつもより集中して作業ができたように思う。次回のモチーフはトマト(の模型)とトイレットペーパーだという。少しは画題らしいものが描けるので楽しみである。

(余談だが、食品とトイレットペーパーは決して並べて置かれることがないので、模型とはいえその光景を実際に目にすると強烈な違和感を感じる。もっと他の組み合わせはなかったのか)

関連

過去の絵画教室

2011/05/14/Sat.

前の日記で、「私に見えているコト(≠モノ)を他者にも見えるようにすることが絵画的表現である」という考えを紹介した。

絵画的表現の最も大きな特徴は、表現、伝達、受容の様式が一意に定まらないということである。したがって、科学では絵画的表現が厳しく排除される。写真でも同様である。写真だけでは説明として不充分であり、必ず何らかの定量化を要求される。数字になれば任意の解釈が許されなくなり、以後の論理展開が可能になるからである。このあたりの事情は「論理性と定量性」で少し述べた。

では、研究者は定量化しないと何も考えられないのか。もちろん否である。顕微鏡で細胞を観察したとき、ネズミを開腹したとき、泳動した物質のバンドを確認したとき、彼らは一瞬にして前後の事情を把握できる——場合もある。これは視覚的気付きである。しかし個人の気付きだけでは科学にならないので、他者に伝達するために、定量化・理論化・言語化という作業が行われる。ここで使われるのは聴覚系の能力である。

重要なのは、視覚的気付きの全てが言語化され得ないであろう、という点である(もしそれが可能なら、論文に写真を添える必要はないはずである)。このことには常に注意しておくべきであろう。

2011/05/08/Sun.

絵画教室では体験講座のときに講師氏から、一回目の授業でアシスタント嬢から、何か描きたいものはあるかと問われた。

私が絵を習おうと決めたのは、「言語系・聴覚系への依存が少ない世界の理解の仕方」を体得せんがためである。油彩に挑戦したいのは、一度あの濃厚な油絵具をこねくり回して画布に塗りたくってみたいという子供っぽい願望の故である。しかし、そんな説明ができるはずもない。

少し話は逸れる。以下は以前より考えていたことである。

一つ。撮影装置がこれだけ進歩したにも関わらず、解剖学の教科書の多くは現在でも、写真ではなく写実的な絵によって臓器や組織を図示している。何故か。これは一度よく考えてみる価値がある。

二つ。私はこれまで、様々な培養細胞、動物の臓器やその切片、線虫やネズミといった生物個体を観察してきた。そして、それぞれに特有の美しさがあることも感じてきた。だが普通の人にとって、これらは別段美しくない(むしろ気味の悪い)ものであったり、それ以前に全く意味不明な像であったりするだろう。では何故、私はこれらの像=絵を美しいと感じるのか。それは、その背後に隠れている——見える人にはこの上なく明らかに「見えている」——秩序や構造を「知っている」からである。そう思われる。

(例えば、切片像はあくまで二次元だが、観察する研究者は頭の中で三次元の構造を再構成しているはずである。そして、彼が本質的に「見ている」のは後者である)

「見える」とは一体どういうことだろう。

二つ目の議論が示唆するのは、物理的な像が視野に結ばれることと、その意味や文脈が認識されることの間に存在する乖離である。知っていなければ見えない。この命題は恐らく正しい。では、「知らなくとも見える」あるいは「見ることによって知る」ことは可能だろうか。この設問に対する回答の一つが解剖学の教科書であるように思う。シャッターを切らずに絵筆を執る意義がここにあるのではないか。

私に見えているコト(≠モノ)を他者にも見えるようにすることが絵画的表現であるなら、私が興味・関心・知識を持ち合わせていない対象を描くことに大した意味はない。「描きたいものはあるか」という質問が発せられるのは当然といえよう。

と、ここまでは観念的な話である。それとは全く別に、最近、絵を描くという運動自体が純粋な肉体的快楽をもたらすことに気が付いた。

要するに、ただ線を引くだけで楽しいのである。これは、線が増えることによって段々と形が見えてくる——という高尚な歓びではない。もっと低次の享楽である。線を描く、塗りつぶすことそれ自体が愉悦をもたらすのである。闇雲に手を動かすことで陰影がおかしくなろうが形状に狂いが出ようが、知ったことではない。そういう気分になる瞬間が間違いなくあって、これは幼児の落書きを思い浮かべればよくわかる。

この経験から予感されるのは、私(のみ)が肉体的な快楽を感じるであろう絵画的表現の存在である。気持ち良くなりたいから描く、という動機があっても不思議ではない。個人的には、精密で細かい絵を描いてみたいという欲求があるのだが、これもどちらかといえば肉体的な要請だと思われる。この場合、モチーフの重要性は低い。

長くなった。一つ目の仮説についてはもう少し書きたいことがあるので、次の日記で触れることにする。

2011/05/07/Sat.

絵画教室に行ってきた。入会をしての初回で、これを一回目とする。

体験講座の際に、「デッサンの授業は四回」と聞いたように記憶していたが、正しくは「デッサンを四枚」であった。確かに、二時間という限られた時間で毎回デッサンを仕上げるのは大変だとは思っていたのだ。しかしそれは誤りで、その気になれば幾らでも一枚のデッサンに時間を掛けられるという。もちろん、デッサンに費やした回数だけ油絵を描き始める時期も遅れるわけだが、油彩は二十年来の宿願であり、半年後になろうが一年後になろうが今さら大して変わらぬ。当方は既に腰を据えておるので、デッサンでも何でも気の済むまでシゴいてくれと頼んできた。

さて、本日のモチーフは六角錐の石膏である。正面から見るので左右対称、かつ視野に入るのは三面のみである。単純な像だが、デッサンスケールと測り棒で精確に形を取っていく。

鉛筆は長く持ち、手は紙面に付けないようにと指導される。その通りに実行するが、しかし思うように線が引けない。描くのは直線のみだが、とにかく歪む。意地になって真っ直ぐな線を引こうとしていたら、アシスタント嬢に「A型ですか」と訊かれた。「リラックスして、スッ、スッと」。一本一本のタッチはそこまで厳密に描かずとも良い、形状さえ取れていればタッチを重ねることで雰囲気も出るし、充分に六角錐に見えるという。……だがなあ、直線・垂直・平行が出ないのは気持ち悪いじゃないかと、O型の俺は思うのだった。

ふと、ピペットマンを初めて使った頃を思い出した。あのときも手先をブルブルと震わせていたものである。

時間が少し余ったのでアシスタント嬢と雑談をした。「かなり几帳面ですね。正確さにも拘られてますし。それに、よく見えてます」「仕事柄ですかね」「へぇ、お仕事は何ですか?」「……研究です」。軽率な発言で厄介な質問を誘発してしまった。これ以後の会話がいかに面倒かは、ご存知の向きには説明の要もあるまい。もっとも、「研究なんぞをしている奴」というラベルで顔と名前を覚えてもらいやすいという利点はある。

スケッチブックは教室に預けているので、授業で描いたデッサンを即日掲載することはできないが、いずれ持ち帰る機会があればアップしたいと考えている。

下手糞な絵を公開しているのは、早く上手くなりたいからである。記録だから失敗もクソも関係ないという姿勢で、しばらくは続けるつもりでいる。

関連

過去の絵画教室

2011/05/05/Thu.

この連休は日本語の総説を書いて過ごしていたが、それも今日で完成し、京都のボスに送ることができた。次は同じテーマで、英語のやや長い review を書く。日本語原稿で話の構成や流れはできているから、data や reference を細かく追加していけば書き上げられるだろう。調べ物は調べれば済む。それは作業であって、難しいことではない。と思って頑張ることにする。

2011/05/04/Wed.

デッサンをするようになってから絵について考えることが増えた。といっても、絵を描く目的の一つが「言語系・聴覚系への依存が少ない世界の理解の仕方」の習得なので、「何世紀の画家である某の技法は云々」といった(いかにも僕が好みそうな)知識には最初から触れずにいる。僕が想っているのは、もっと漠然としたことだ。

一つは、絵を描くときに想定するべき対象者についてである。文章を書く際には読者を想像する。しかし今のところ、「自分の絵を見る人」については何のイメージもない。架空の鑑賞者を持つか否かで、文章も絵画も上達の度合いが大きく違ってくると思うが、ではさて、僕はどんな人に僕の絵を見てもらいたいのだろう。

宮部みゆきの文章だったか、松本清張の功績を称えて、「多数の作品によって大勢の人の寂しい夜を慰めた」という意の名文がある。清張作品に登場する人物の多くは、弱く、哀しく、悩みと怒りと嫉みを抱えていた。彼らが紡ぐ物語は、同じ感情を胸に秘める沢山の読者の共感を呼んだ。

それでも……、と思わずにはいられない。多忙な人がその寂寥を紛らわすには、読書という手段はいかにも時間が掛かる。そもそも忙しいがために哀しみを抱えざるを得なかった、という人々も(特にこの国には)大勢いるだろう。彼らの手に書物は重た過ぎるのではないか。

その点、絵の観賞は気軽なものである。文字通り「一目で」見ることができる。「なかなか良い」「いまいち」といった感想が、考えるまでもなく湧いてくる。そして、それで充分である。

「逐次的あるいは経時的な理解を私に強制する」聴覚系の学芸(学問、文芸、音楽、演劇、映画)、それに食事、運動、性交といった肉体的な快楽は時間の流れを要求する。しかし絵画(と写真)だけは、瞬間的な観賞と感動を提供し得る。この事実はもっと強調されて良い。

絵画において「鑑賞に堪える」というのは、じっくり視られてもボロが出ないという意味では恐らくない。むしろ逆で、刹那的な一瞥に対してすら衝撃を与える力のことを指すのではないか。

寂しさを抱えた誰かの鑑賞に堪え得る絵が描けたら、それは素晴らしいことだと思う。