- Diary 2011/04

2011/04/29/Fri.

先週末、引っ越しに使った段ボールを処分して、ようやく我が家も落ち着いた。買い足したい家具はあるが、これは給料が出てからゆっくり吟味したい。四月分の給与が五月に振り込まれる——実績給扱いの任期付きポストの悲哀である——のは誤算だったが。

絵画教室の体験講座に行った翌日に、鉛筆やイーゼル、スケッチブックその他を買い込み、リビングの一角を絵のスペースに充てた。アトリエというにはおこがましいが、ゆくゆくは油絵も描けるようにセットアップしていきたい。自宅に書斎とアトリエがあるといえば、何とも贅沢な話に聞こえる。しかし、他の人間が服だの車だのに費やしている金銭を、私は空間に遣っているというだけに過ぎない。

絵画教室には五月から月二回ほど通うべく手続きを済ませた。最初の四回はデッサンの訓練をするとのことで、待望の油絵に取り掛かるのは夏からになりそうである。

新居には見晴らしと日当たりの良好な広いベランダがあり、洗濯をするのが若干楽しくなった。部屋が広くなれば掃除も大変になるかと思ったが、モノの量は変わっていないので密度が下がり、むしろ片付けは楽になった。散らかしたところで知れているので、仕事も捗る。

新しい職場は概ね快適である。研究所なので研究だけをしていれば良い。当然のことかもしれないが、これが新鮮である。もちろん私は研究だけしかできないが、大学病院では教育も診療もしなければならないので、誰もが慌ただしく動いていた。

鄙びた土地であるのと相まって、ここでは時間がゆっくりと流れているように感じる。

2011/04/23/Sat.

柳田充弘先生の「コレステロールの話」がわかりやすく面白い。循環器の患者に読んでほしい文章である。ちなみに、「肝臓を標的にしてアセチル CoA から作る酵素を阻害」する薬はスタチンといって、我が国(三共)で開発された。スタチンが医学・医療に与えた impact は計り知れない。

新しい研究室でのテーマに関して少し書く。

今度のラボでは主に血管を研究する。これまで研究してきた心臓とは生理的に関係が深いが、手法や題材には大きな違いがある。視野を深めつつ広げることができればと思っている。

柳田先生は、「高コレステロール血管症では本来大切な役割をする白血球が狂ってしまってとんでもない行動にでるので血管がつぶれる」と書いておられるが、もちろん血球だけではなく血管にも異常が生じる。その結果、血管内皮と血球の接着が起こり、血管や周囲の組織で炎症が起きる。代表例が動脈硬化である。

動脈硬化が悪化すると血流が遮断される。冠動脈が狭窄ないし梗塞すれば虚血性心疾患(狭心症・心筋梗塞)、脳の血管が詰まれば脳梗塞が起こり、脚の血流が途絶えれば「足が腐る」(下肢閉塞性動脈硬化症[ASO])。心臓のラボでは心筋梗塞を、脳のラボでは脳梗塞を一所懸命に研究するわけだが、血管から見れば、これらの疾患は同じ症状の別な顕れともいえる。

(スタチンは血中コレステロール濃度を低下させることで、上記の疾患の発症も抑制する)

四月から私が行っているのは、血球と血管内皮の接着を in vivo かつ real-time で観察することである。この三週間で実験系を構築し、定量化するところまで漕ぎ着けた。動物実験の経験が豊富というわけでもなく、試行錯誤も多いが、技術の幅を拡げられるよう努力したい。毎日顕微鏡を覗いているが、微小血管が組織中を隈なく行き渡り、大都市の交通網さながらに血球が走行する様からは、目に見えぬ美しい秩序を感じ取ることができる。

2011/04/16/Sat.

新しい生活にも馴れてきたので、以前からの計画に従い、絵画教室の門を叩いた。今回は、体験講座で林檎のデッサンを行った。講師の僅かな助言に従うだけで、想像していた以上の絵を短時間に描き上げることができた。これには純粋に驚き、また感動もした。

デッサンは芸術というよりも技術(アルテ)である。技術とは、原理に基づいた方法である。これは知識でもあり、大袈裟にいえば文明でもある。ちょっとしたことを知るだけで、誰でもそれなりの効果や利益を得ることができる。

(技術を伝授することもまた技術である。今回の経験で、学校の美術教師どもがいかに無能であるかがよくわかった。あの程度の連中は馘首した方が子供たちのためにもなるだろう)

講師の画家は、私と年齢の近い好人物であった。私は科学者(の卵)であるが、この職業は芸術家の対極にあるようでありながら、極めて近い部分もあるように思う。芸術で飯を食っている人間が、何を考え、どのように生きているのかは非常に興味深い。

そのようなこともあって、来月から正式に入会し、定期的に通うことに決めた。

2011/04/10/Sun.

科学的な思考において最も重要なのは論理性であるが、それを担保するという意味でより根源的なのは定量性ではないかとも思う。科学において「〜だから……となる」と論じるには、量が決定的な役割を果たす。なぜなら、科学的議論の土台となるのは観測された事実であり、通常これは数値という形で現れる——、というよりも数値へと変換された形で把握されるからである。公理から純粋に演繹される数学とは実にこの点が異なる。

福島の原子力発電所における放射線漏洩がこれほどの混乱を引き起こしているのは、事案の重大性に加え、ほとんどの人間が、発表される数値に対して定量的な判断が下せていないからではないか。どれほどの漏れなのか。半減期は。影響が出る期間は。確率的な危険性は。などなど。

今回の事件に限った話ではない。定量的に物事を認識している人は驚くほど少ない。