- 活け花と盆栽

2011/01/19/Wed.活け花と盆栽

風邪に罹って往生している。

読書日記

本棚を見るたびに一ヶ月後の引っ越しについて考えてしまい、必要な作業を思い浮かべては億劫な気持ちになる。しかし本当に心配しているのは、引っ越した先で書籍の購入に歯止めがかからなくなるのではということだ。

新居は広くて部屋数も多く、また、春からは所得が増えることに加えて学費の支払いもなくなるので、空間・金銭的余裕はそれぞれ倍以上になる。これまでは入手を自重してきた漫画や大判本も、遠慮なく買うことができる。もっと危険なのは、自分は Amazon での購入を全面解禁するであろうということだ。引っ越し先は田舎なので大した本屋はなく、どうしても Amazon に手を出さざるを得ない。ほどほどで止めることができるか、はなはなだ心許ない。

活け花と盆栽

植物の死は動物のそれよりも曖昧であるように思う。

食卓の皿の上に乗っているものは死体である。材料の段階では生きているものもあろうが、普段スーパーで見かけるような食材は大体において死んでいる——。と思うのだが、例えばキャベツ一玉などは果たして「死んで」いるのだろうか。じゃがいもは放置しておくと芽を出し始める。人参や大根は植え直したら再び葉を伸ばしそうな気もする。かいわれ大根は完全に生きているだろう。もやしも怪しい。

「活け花」というからには、花器に活けられた花はまだ「生きて」いるのだろう。そう思うと、随分と残酷な気がしてならない。ちょっと差してみては、この枝が気に入らない、どうも茎が長いといって、バツンバツンと鋏でチョン切っていく。一週間ほど水に浸かっているが、死んでいるのか生きているのかわからない。萎びてきたらゴミ箱に捨てられる。

その点、盆栽は疑いもなく「生きて」いる。植物の「成長」を楽しむといった一面もある。ここが決定的に活け花と異なる。だから活け花は好きになれないが、盆栽には好感が持てる。

病院では、実験動物の慰霊祭を年に一度行っている。生物学や医学の進展のために犠牲となった実験動物の霊を弔うわけである。同様の儀式が、華道においてもなされているのだろうか。興味がある。