- Diary 2011/01

2011/01/26/Wed.

『ジョジョの奇妙な冒険』に登場する DIO のスタンド「世界(ザ・ワールド)」の能力は、「時を止める」「止まった時の中を動ける」というものである。

ところで、時が止まるからには、粒子の運動も全て停止すると思われる。光子も例外ではない。この仮定が正しければ、「世界」を発動させた瞬間から DIO の視神経は励起されなくなる——視界が闇に閉ざされる——はずである。どうも、あまり有り難みがない。

2011/01/19/Wed.

風邪に罹って往生している。

読書日記

本棚を見るたびに一ヶ月後の引っ越しについて考えてしまい、必要な作業を思い浮かべては億劫な気持ちになる。しかし本当に心配しているのは、引っ越した先で書籍の購入に歯止めがかからなくなるのではということだ。

新居は広くて部屋数も多く、また、春からは所得が増えることに加えて学費の支払いもなくなるので、空間・金銭的余裕はそれぞれ倍以上になる。これまでは入手を自重してきた漫画や大判本も、遠慮なく買うことができる。もっと危険なのは、自分は Amazon での購入を全面解禁するであろうということだ。引っ越し先は田舎なので大した本屋はなく、どうしても Amazon に手を出さざるを得ない。ほどほどで止めることができるか、はなはなだ心許ない。

活け花と盆栽

植物の死は動物のそれよりも曖昧であるように思う。

食卓の皿の上に乗っているものは死体である。材料の段階では生きているものもあろうが、普段スーパーで見かけるような食材は大体において死んでいる——。と思うのだが、例えばキャベツ一玉などは果たして「死んで」いるのだろうか。じゃがいもは放置しておくと芽を出し始める。人参や大根は植え直したら再び葉を伸ばしそうな気もする。かいわれ大根は完全に生きているだろう。もやしも怪しい。

「活け花」というからには、花器に活けられた花はまだ「生きて」いるのだろう。そう思うと、随分と残酷な気がしてならない。ちょっと差してみては、この枝が気に入らない、どうも茎が長いといって、バツンバツンと鋏でチョン切っていく。一週間ほど水に浸かっているが、死んでいるのか生きているのかわからない。萎びてきたらゴミ箱に捨てられる。

その点、盆栽は疑いもなく「生きて」いる。植物の「成長」を楽しむといった一面もある。ここが決定的に活け花と異なる。だから活け花は好きになれないが、盆栽には好感が持てる。

病院では、実験動物の慰霊祭を年に一度行っている。生物学や医学の進展のために犠牲となった実験動物の霊を弔うわけである。同様の儀式が、華道においてもなされているのだろうか。興味がある。

2011/01/17/Mon.

阪神淡路大震災から十六年。黙祷。

先週は帰省していて、遅ればせながら正月気分を味わってきた。

五日。学位審査を終える。主査の先生に恵まれ、質疑にも楽しんで応じることができた。討議の後、合格を告げられる。安堵を覚えたのは自分でも意外だった。やはり随分と緊張していたのだろう。

翌日。捺印を貰うために主査の先生を伺ったら、まあ座りなさいと促され、そこから science についての熱い話を小一時間に渡って拝聴することとなった。俺が MD でないこと、以後も研究を続けることを聞いて、色々と話しておきたいと思ったのだという。有り難いことである。

主査の先生は MD だが、ずっと基礎研究をやっていて、PhD のような人生を送ってきたのだという。Scientist として、これからどのように自分の仕事や人生を design していくかという話を、目の前で、一対一でして頂いた。夢想だにしなかった、大学院での最後の講義となった。帰り際には「何かあったらいつでも来なさい」とまで言って下さる。学位審査まで一面識もなかった学生に対して、lip service にしても過ぎた言葉だろう。立派というか変わっているというか、面白い方であった。

このような形で大学院を終えられるのは、幸せなことだと思う。

その日の夜は、ボス主催の新年会に出席した。しかしボスは、体調が優れぬといって早々と帰宅。彼の身体が定期的に不調をきたす原因は、主に神経性——すなわち諸々の心配事——である。秘書女史に聞くと、案の定、ボスの頭は来年度の研究費のことでいっぱいらしい。彼の苦悩は察するに余りある。

そんな自分も四月にはもういない。残る誰かがボスを気遣ってやってくれよと切に願うのだが、一番の上座で飲み食いしているテクニシャン君(何故そこに座っているのか全く理解できない)などを見ると、絶望的な気持ちになる。新任地に赴いても、ボスにはそれなりの頻度でメールを送ろうと決めた。

春からは大阪の研究所に務める。詳細は追って各位に御報告するつもりだが、研究もサイトの更新も続けるので、ネットの向こう側から見れば大きな変化はないかもしれない。四月には shuraba.com も九周年を迎える。よく続いているものだ。

今日は学位論文と最後の書類を事務に提出し、こちらで行うべき全ての手続きを終えた。三月には学位を取得できるはずである。めでたいとは思わない。この世界において、ようやく人間になれたというだけのことである。

2011/01/01/Sat.

明けましておめでとうございます。

既に書いた通り今年は自室で元旦を迎えた。ちなみに旦という字は日昇を表した象形文字で要するに元旦とは初日の出のことであり元日を指すのではない。この誤用はあまりにも多いので一々指摘する気にもならないのだが帰省していないとテレビや新聞を見聞きする機会がなく毎年恒例の初怒りが訪れない。それでは何だか寂しいのでここに書いた次第である。しかし書いたら書いたでやはり腹が立ってきた。我ながら馬鹿げていると思うが仕方がない。つまらぬことで怒ってしまった。

さて正月を示唆する気の利いたものが我が家にあろうはずもなく感慨とは無縁の新春である。落ち着いているといえば落ち着いている。空腹を覚えればコンビニエンスストアに赴くのもいつも通りである。平静と異なる点といえばわざわざ革靴を履いたことだろうか。晴れ着の代わりではもちろんない。昨日は雪が降り積もっている中を迂闊にもサンダルで出かけてしまい往生したからである。過ちは繰返しませぬからなどと元日らしからぬ不謹慎な冗談を思い付いてフフフと笑う。初笑いである。五分ほどの外出を終え買ってきたシーフードドリアに入っている海老をつつきながら「海老やのに猫背て」というのが妙に可笑しくて再びフフフと笑う。第二笑いである。つまらぬことで笑ってしまった。