- 探偵小説と公理系

2010/08/04/Wed.探偵小説と公理系

かつては年間百冊以上の探偵小説を読み、自分で書いていたことすらある。しかし最近はめっきり読まなくなった。理由は幾つかある。

探偵小説は、本文中にちりばめられた描写(作中においてそれは「証拠」として扱われる)を論理的に繋ぎ、事件の真相を暴くことを主題にした小説である。この様式は自然科学の論文に等しい。そして、それが「事実」であるという一点において、学術論文は探偵小説を凌駕する。

探偵小説がリアルであろうとすればするほど、この落差は顕著になる。フィクションである探偵小説は、まずはその本質を突き詰めるべきである。この点で、島田荘司の探偵小説論は基本的に正しい。探偵小説はもっと「小説的」であって良い。

もう一点、いわゆる本格探偵小説における「フェア・プレイ」とは何かという問題がある。

真相に至るための記述が事件解決前に不足なく開示され、それらを論理的に組み立てさえすれば、読者は名探偵と同一の結論に辿り着くことができる——。このような探偵小説が「フェアである」といわれる。本当だろうか。問題は「論理的」という部分にある。

一群の探偵小説が無意識に想定している論理空間は、至って古典的(ギリシア式、ユークリッド的といっても良い)である。これは半ば自明なことなので、フィクションである小説の中では明示されない。しかし、探偵小説をゲームとして捉えたとき、論理空間の非開示は、ルールの非公開と等しいことに気付く。探偵小説がまず実践することは、証拠の開陳ではなく、公理系の提示である。

極端なことをいうと、公理系さえ示されていれば、非ユークリッド的な論理空間における極めて論理的な探偵小説を考えることもできる。むしろそこにこそ、探偵小説の未来があるのではないか。

(非ユークリッド的というのは、あくまで比喩である。実際には様々な可能性が考えられる。例えば、既存の法体系とは全く異なった秩序世界における「犯罪」など)

(非ユークリッド的な論理空間で語られる探偵小説が存在しないわけではない。しかし公理系があらかじめ明かされていないので、「論理がアクロバティック」「本格ではなく変格」と評されることが多い)

論理的であることと現実的であることは、実は別問題である。中世ヨーロッパの僧侶は、神の存在を論理的に証明した。同じことが小説でできないわけがない。探偵小説が獲得するべきは、独自の公理系と、魅力的な第一原理である。