- 天智朝と天武朝

2010/06/27/Sun.天智朝と天武朝

保阪正康『天皇が十九人いた』を読み、天皇家について色々と考えた。

天皇家は万世一系ということになっているが、南北朝問題に見られる通り、歴史を通して盤石であったわけではない。古い時代では継体天皇(第二十六代)などは相当怪しい。

それから、女性天皇の問題がある。江戸時代の明正天皇(第百九代)と後桜町天皇(第百十七代)を除き、女性天皇は推古天皇(第三十三代)から称徳天皇(第四十八代)までの間に集中している。

推古は皇女にして皇后ではあったが、聖徳太子という聡明な皇子がいながら、慣例を破ってまで即位した理由は謎である。聖徳太子に蘇我氏の血が入っているからという説もある(推古も蘇我氏の娘だが)。

推古から、次の女帝である皇極天皇(第三十五代)=斉明天皇(第三十七代)に至るまでも面白のだが、ここでは割愛する。この時代はとにかく系図がややこしい。

斉明の跡を、息子の天智が襲うことになる。ここで「王朝」というものをどう考えるか、という問題が出てくる。下記の系図を参照してほしい(数字は代数、太字は女性)。

     ┌─────弘文39           高野新笠
     │                     ┠───桓武50
     ├─────施基皇子───────────光仁49
     ├─────元明43            ┃
┌天智38┤      ┃              ┃
│    └持統41  ┠──┬文武42─聖武45┬井上内親王
│      ┃    ┃  └元正44     └孝謙46
│      ┠───草壁皇子          (称徳48
│      ┃
└─────天武40─舎人親王─淳仁47

天智(中大兄皇子)と天武(大海人皇子)は斉明の息子であるといわれているが、天武は天智の異父兄弟とする説もある。仮にそれが真実であれば、これまた万世一系を危うくする一事である。

天智が大化の改新で蘇我氏を血祭にあげた事実は、推古ー斉明の流れを考えると興味深い。ともかく天智は即位し、その後は天武ということになった(とされる)。しかし天智は、自らの息子である弘文(大友皇子)に位を譲りたくなる。それを察した天武は吉野に隠棲し、天智の死後には弘文が即位した。ところが天武は壬申の乱を起こして皇位を奪取する。天皇家の内乱であり、南北朝分裂に匹敵する事件でもある。

ここで「天智朝/天武朝」とできれば簡単なのだが、ことはもう少し複雑である。天武の皇后は天智の娘・持統である。持統は息子の草壁皇子を即位させたかったが、草壁は若くして死んでしまう。そこで、草壁の息子・文武(軽皇子)の即位を目指し、持統自身が帝位に就くことになる。持統は皇女にして皇后でもあるから、推古の例と似ていなくもない。

やがて成人した文武が即位するが、この天皇もまた早世してしまう。そこで、文武の息子・聖武までのつなぎとして、元明が即位する。彼女は皇后ではないが、皇女ではある。

元明の後には、文武の姉・元正が即位する。父が天皇ではない唯一の女帝である。未婚のまま天皇となったので、結婚もできない。完全に、聖武に位をつなぐためだけの女帝である。

聖武には成人した男児がいなかったので、娘の孝謙が跡を継いだ。彼女もまた未婚のまま即位したので、やはり結婚はできない。弓削道鏡との噂が取り沙汰されたのはこのためである。

孝謙は後に、天武系の淳仁(舎人親王の母も天智皇女だが)に位を譲るが、この天皇は間もなく廃位を宣告される(淡路廃帝)。孝謙は称徳天皇として重祚するが、いかんせん天武の血を持つ男子がいない。仕方なく、姉の井上内親王と結婚していた光仁に位を譲ることになる。

光仁と井上内親王の間には男子がおり、皇太子にも叙せられていたが、これも何故か廃され、代わりに高野新笠が生んだ桓武が立てられる。高野新笠は百済系渡来人の末裔とされており、今上陛下がその出自に触れられたこともある。桓武の即位により天武の血統は途絶えた。

この王朝はいったい何であろうか。天武朝といっても、血統的には天智朝でもある。全体的に、むしろ天智の血の方が濃い。天武朝などなかったとすらいえる。

持統、元明、元正は、何の血統を維持するために女帝となったのだろうか。事跡の多い持統はともかく、元明、元正は明らかにつなぎである。特に元正のケースは極めて危うい。それから、直系男子がいない状態で即位した孝謙天皇、彼女は何を考えていたのか。彼女はつなぎですらない。仮に愛子内親王が即位すれば、その立場は孝謙と似た難しさに直面するだろう(悠仁親王の誕生で、この心配はほぼなくなったが)。