- 読書と能動性

2010/06/15/Tue.読書と能動性

モデムが故障して、先週末はインターネットに接続できない状態で過ごす羽目になった。随分と不自由である。おかげで読書に耽ることができたが、逐一の調べものができなかったので、消化不良の感も残った。

小説などの文芸作品は別として、書籍単体で充分な満足を得ることは難しい。詳細な註釈、最新の情報をインターネットで補完するといった作業を、読書家は日常的に行っていることだろう。

現在の検索サイトは、検索語を入力することでその真価を発揮するという設計になっている。「調べたいこと」がない者にとって、Google は何の価値もないサイトである。インターネットを利用した情報の収集には能動性が要求される。「求めよ、さらば与えられん」。情報格差が生じる理由がここにある。

本は、上記のような自発的な行動の動機を提供する。したがって、不完全でも不親切でも構わない。大枠を提唱し、観点を提示し、関係を提起することこそ重要である。読者は必要に応じて知識を補完すれば良い。その過程で得られた情報の断片が一定量を越えれば、新たに関係付け、体系化したいという欲求が生じる。彼の手は次の書籍に伸びるだろう。本はなくならないと信じられる所以である。媒体は電子化されても、本という形式は生き残るに違いない。

インターネットが一般的になる以前にも、このような循環は存在した。しかし、補完作業には辞書を始めとする膨大な資料を物理的に用意しなければならなかった。仮に準備できたとしても、目的の情報に達するには手間と暇が要る。インターネットは、これらの行為にかかるコストを劇的に下げた。読書循環への参入障壁は取り払われたのである。Amazon の台頭によって書籍の入手も容易になった。結果として、本はもっと売れても良いはずである。

だが、現実は必ずしもそうなってはいない。理由の一つは、出版点数の多さであろう。本の形をした便所紙の束が多過ぎる。一方で、ここ十年来の復刊ブームが続いている。良書の需要が高まり、供給側もそれに応えようとしている動向を確かに感じる。悪書と良書、どちらがどちらを駆逐するのか、現在はその分岐点ではないのか。

在庫の必要がない電子書籍は、「売れない」本——しばしば良書がそうである——と相性が良い。逆に、何となく目に付いた本を買う、といった購入の仕方とは縁が薄い。電子書籍の販売は、本屋でのそれとは全く違う読者の積極性、能動性に左右される。教養の格差もまた、ますます拡がっていくだろう。