- 創造者と評論家——海原雄山と『美味しんぼ』

2010/05/21/Fri.創造者と評論家——海原雄山と『美味しんぼ』

本屋には二種類の売物がある。本と、本の形をした便所紙の束である。前者は安価だが、後者は高価なので、尻を拭くのが目的ならチリ紙を購入した方が良い。

評論家が書いた小説は大抵つまらぬが、これは、創造と評論が全く異なる行為であることを示唆する。

『美味しんぼ』は最低の漫画だが、その責の大半は山岡士郎にある。他人が一所懸命に作った料理を食べては「不味い」と悪態をつき、口を極めて料理人の無学を罵る。揚げ句の果てには「俺がもっと美味い○○を食わせてやりますよ」。

海原雄山の言動も山岡のそれと変わらぬが、雄山には酷評をする資格がある。彼は芸術家=創造者である。自らの芸術に完全を期す雄山は、他者が作る料理に対しても完璧を求める。料理人も自分と同じ創造者である(べき)と考えるからに他ならない。美食倶楽部主宰という設定は、雄山が単なる食通=評論家でないこと、料理を創造と認識していることを証明している。雄山の苛烈な言辞は、創作上の必然なのである。

食通・山岡の舌が、雄山の創造によって培われた事実は注目に値する。雄山は芸術の創造によって対価を得、もって料理という新たな創造をなし、結果として山岡の味蕾を生んだ。山岡の「評論」は、雄山の創造の残滓でしかない。

山岡が雄山と訣別する際、雄山の作品をことごとく粉砕したという逸話も吟味する必要がある。雄山の創作を破壊することによってしか、自分の意思を表現できなかった非創造者・山岡。料理および料理人に対する彼の姿勢の原点がここにある。山岡は評論家ですらない。

芸術家にして料理人であり、あらゆる意味で山岡の父でもある創造者・雄山は、ゆえに作品内で独り異彩を放つ。雄山の人物像は、百巻以上にも及ぶ『美味しんぼ』唯一の成果である——であった。

二〇〇八年、雄山と山岡は和解した。創造をせず、理解もせず、否定することしかできない山岡を、雄山は赦したのである。創造者・雄山は退場し、山岡は、ゆう子との間に子どもを儲ける以外に何かを創造することもなく、『美味しんぼ』は正真正銘の便所紙へと堕した。

最後に、この稿を単なる評論で終わらせぬため、創造的な提案を試みよう。

料理という土俵で雄山と対峙するには、山岡もまた創造者とならねばならない。『美味しんぼ』では、しばしば無農薬栽培や食品添加物が主題になる。これらの問題について、山岡は蘊蓄を垂れるだけではなく、手ずから食材を創造することに挑戦したらどうだろう。雄山が陶土を捏ねたように、畑の土を捏ねるのだ。