- Diary 2010/03

2010/03/31/Wed.

今年度は進歩がなかった T です。こんばんは。

明日はエイプリル・フールである。

ふと思ったが、「今日は嘘をついても良い日だ」というのは、「私は嘘つきだ」というパラドックスと少し似ている。「嘘をつかなくても良い」ので厳密にいえば矛盾ではないが、矛盾でないゆえに悩む余地があるという点ではタチが悪い。くだらぬ慣習である。

Wikipedia によれば、『コーラン』に反するのでイスラム教ではエイプリル・フールが禁じられているという。真偽のほどは定かではないが、好感が持てるエピソードである。

2010/03/30/Tue.

半年前に賞味期限が切れた油を使ってシチューを作った T です。こんばんは。

昨日の日記で「人口数十万から百数十万人の地方都市ばかりで生活してきたので、自分のことを田舎者だとも都会人だとも思っていない」と書いた。

では俺にとって「田舎」「都会」とは何だろう。しばし考えた末、「自分が住んできた町よりも小さければ田舎、大きければ都会」という結論に落ち着いた。何だつまらん。だがそういうものかもしれぬ。

いやしかし、生まれ育った環境によっては違ってくるのかもしれぬ。

例えば離島のように、どれだけ擁護しようと頑張っても「ここは田舎である」と認めざるを得ない場所に生まれ育った人間は、やはり自分のことを「俺は田舎者である」と規定するのではないか。問題は、「ここは田舎である」「俺は田舎者である」と自認せざるを得ないその上限がどこにあるのかだよなあ。もちろん線引きなどできようはずもなく、主観によって異なるグレーゾーンが存在することは間違いない。「都会」に関しても同じことがいえる。

それにしても、田舎-都会の判断が、劣等-優越という感情と連動しがちになるのは困ったことである。通信手段が発達したのだから、もうそろそろこの桎梏から解かれても良いのではないか。

2010/03/29/Mon.

好きなように生活したら良いのではないかと思う T です。こんばんは。

「書を捨てよ、町へ出よう」という文句をスローガンとして捉えたとき、そこから俺が感じられるのは田舎者のコンプレックスのみなのであるが、そういう意見はあまり聞かない。

『書を捨てよ〜』を著した寺山修司が生まれ育った青森にはそもそも「町」がなく、彼の無聊は「書」によって慰められるしかなかったという背景がまずある。そんな寺山が東京にやってきて、「うはww町スゲえww本なんか読んでる場合じゃねえww」となるのは理解できる。だから「書を捨てよ〜」という標語は本来なら田舎者にこそ共感されるべきものだが、寺山を支持したのは多くの都会人であった。不思議な話である。

町の住人である都会人は「町」にウンザリしていなかったのか、という素朴な疑問が湧く。都会人は、町の騒がしさ、つまらなさ、くだらなさ、意味のなさに気付き、見るべきものなどないと悟り、町へ出るくらいなら家で本を読んでいた方がマシ、「引き篭もろう、本を読もう」と唱えるべきではなかったか。

『書を捨てよ〜』が出版された 1967 年当時、日本にはまだ真の「町」も「都会人」もいなかったというだけなのかもしれない。いずれにせよ、当時まだ生まれてもいなかった俺にはわからぬことである。

さて、実をいえば、『書を捨てよ〜』という本の中身は、上述したような「書を捨てよ〜」という標語とは別物である。あまりにも有名なこのタイトルだけが独り歩きしているので誤解も多いようだ。しかし、今どき『書を捨てよ〜』を読む若者などおらぬだろうし、誤解のままでも構わないのではないかと思う。『書を捨てよ〜』は時代の書物である。現在の若い人に得るところがあるか、いささか疑わしい。

一つ、話のネタになる豆知識を書いておく。文中でも明かされているが、「書を捨てよ〜」という文言はアンドレア・ジイド『地の糧』からの引用である。何のことはない、寺山は「書を捨て」たわけではなかったのだ。もっとも、この人の書くことは大抵いい加減だから、別に驚くことではない。

ちなみに俺は、生まれてこの方、人口数十万から百数十万人の地方都市ばかりで生活してきたので、自分のことを田舎者だとも都会人だとも思っていない。じゃあ何だ、と問われても困るが。

2010/03/28/Sun.

珍しく我が家のインターホンが鳴ったので驚いた T です。こんばんは。

居留守を決め込んだのはいうまでもない。

特定の時間を想起させる言葉が入った文章は必ず古くなる。色褪せ、くたびれ、それが一種ノスタルジックな雰囲気を醸し出すのならまだしも、目も当てられないほどカビ臭くなってしまい、読んだ人間に何ともいえないモヤモヤとしたものを感じさせる死文にはヒャア勘弁と叫びたくなる。だからこの日記では「"前"首相」のような表記は採用しておらず、理想をいえば「今年」「今月」といった単語すら使いたくないと考えている。いつだよ。「今年」って。しかし実際に使用を封印するのは難しい。

話は変わるが「——」(ダッシュ) のことを「文学線」と呼んでいるのを見かけて、面白いというか何というか、これは揶揄なのか、きっと揶揄なんだろうなあ、と一瞬考えさせるあたりが絶妙であると思った。

さらに話は変わるが、筒井康隆『エディプスの恋人』で使われている技法を改良した「分岐文」なるものを考えたことがある。単純な例を挙げる。

   父である信秀は永正七年に生まれたとされる。
   の
織田信長は天文三年、尾張に誕生したという。
   の
   弟・信行の生年には諸説がある。

分岐した文章の合流も考えられるし、分岐点や分岐方向をそれぞれの文章が意味する時空間と対応させるといった芸も思い付く。難点は読みにくいことである。媒体のレイアウトに依存していることも大きな欠点か。

2010/03/27/Sat.

オッサンになって色々なことがわかるようになってきた気がする T です。こんばんは。

君や君の彼氏も皆いずれオッサンになる。君が思っているよりもずっと早くだ。関西では女性ですらオッサンになる。気を付けた方がいい。

ところで「おふくろ様」という言葉の使用例を『前略おふくろ様』以外に俺は知らぬ。これは一般的な日本語なのだろうか。関西ではもっぱら「オカン」が使われ「おふくろ」は市民権を得ていないためよくわからぬ。

2010/03/26/Fri.

何事ももっと簡素にならないかと常々思っている T です。こんばんは。

「僕たちが欲しいのは電源を入れたら即座に操作可能となるコンピュータです」といった書き出しで始まる文章があったはずだが出典を忘れてしまった。「コンピュータ」ではなく「ゲーム機」だったかもしれない。

確かにファミコンなどは電源を入れた数秒後にはスタートボタンを押してゲームを始めることができた。それが今は何だ。コンピュータやゲーム機は進化した高速になった大容量になったというが起動してからゲームをプレイし始めるまでの時間は延びるばかり。「据え置きダルい。携帯機サイコー!」という昨今の風潮はこの起動時間の延長と無関係ではない。大画面液晶の立ち上がりがブラウン管よりも地味に遅いことがこの傾向に拍車をかける。テクノロジーは本当に進歩しているのだろうか。僕たちが夢見た未来はこんなのじゃなかった。

今日はサイトのプログラムを少しイジって表示の高速化を試みた。上に倣っていうなら「僕たちがアクセスしたいのはリンクを飛んだら即座に表示されるページです」となるだろうか。最近はどのページにもベタベタと広告やブログパーツが貼ってあって肝心な部分の読み込みが遅くイライラして表示される前にタブを閉じてしまうことも少なくない。広告などを非表示にするプラグインも存在するが完璧にブロックしようとすればするほどブラウザの動作が遅くなるという馬鹿げた結果になる始末。テクノロジーは本当に進歩しているのだろうか。僕たちが夢見た未来はこんなのじゃなかった。

「リッチなユーザエクスペリエンス」などといった洒落臭いものをいったい誰が望んでいるのか。女子供か。僕たちは黒い画面に緑色の文字が高速大量に流れるシンプルな端末に素朴な畏敬と未来への憧憬を抱いたのではなかったか。幼稚なメタファーは形而下的な感覚でしか物事を捉えられない者にだけ提供されれば良い。かつて僕たちが夢見たテクノロジーは人間を形而下的な煩わしさから開放し精神をより形而上的な世界へと開放するために進歩したのではなかったか。どうしてこうなった。

2010/03/15/Mon.

世の平和と心の平安は基本的に無関係だと思う T です。こんばんは。

いつの時代、どんな場所でも苦悩する人間が絶えることはない。仮に「大多数の人々の心の平安が保たれている状態」を「平和」と定義するなら、大多数とは何ぞやという疑問が生まれ、極端にいえば社会の平和は定量的で計量可能なものということになる。また、平和とされる世の中でも個人が無惨な事件や事故に巻き込まれる確率はゼロではない。アクシデントによってよってその人の平和が乱されるとするなら、個のレベルでは平和は確率的なものであるとすらいえる。平和の対義語を戦争とするのも納得がいくようで実のところ意味不明である。

ところで。

幕藩体制のことを「パクス・トクガワーナ」と書いているのを見かけて、面白いことを言う奴がいるものだと感心した。それでは摂関政治は「パクス・フジワラーナ」、御家人制度は「パクス・カマクラーナ」、室町幕府は「パクス・アシカガーナ」であろうか。

興味深いことに、近代以前の日本の安全保障制度が対象としたのは全て国内の秩序に限られる。国内といっても「パクス・フジワラーナ」においては下級階層の安寧は完全に無視されており、その実態は『羅生門』に見られる通りである。検非違使が令外の官である一事をもってこの制度を落第と判断しても一向に差し支えがない。

「パクス・カマクラーナ」はその優秀さゆえにかろうじて元寇を撃退することができたが、最初からそのような対外侵略を想定していたわけではない。事実、元寇後にその組織は大きく傾くことになったが、ある種の地方分権制度による国内安全保障という発想は以後の組織にも脈々と受け継がれることになる。

「パクス・アシカガーナ」は六代将軍義教の頃までは国内安全保障制度としてよく機能していたように思われ、特に三代将軍義満による南北朝の合一は秩序回復という観点からは大きな成果である。義満は対明朝貢外交において「臣源道義」という署名を使用するなど一部で評判が悪いが、これを対外安全保障戦術として考えるなら決して下策というわけではない。しかし義満の真意が奈辺にあったのかはいささか不明なところもある。

世界にも稀に見る完成度を誇った史上最高の国内安全保障体制「パクス・トクガワーナ」ですら、対外安全保障については完全な無策に等しく、外国の軍艦が一隻来ただけで崩壊してしまったのはある意味で驚くべきことである。武士階級を自衛隊、黒船を核兵器に喩えて現代を顧みるのは意地悪に過ぎる見方であろうか。

我が国の組織が試みたパクスは全て日本だけのパクスであった。外国を想定した自国の防衛にすら大した注意が払われておらず、近隣国の平和をも含んだ広域安全保障制度によって実現されたパクス・ロマーナやパクス・アメリカーナとは完全に異なる。

もしも戦前の大東亜共栄圏や五族共和といった考えがその理想とするところを実現していたなら、それは「パクス・ジャパーナ」と呼ばれ得るものであったかもしれない。しかし歴史を繰り返したところで「パクス・ジャパーナ」が実際に顕れることはないだろうと思われる。広域安全保障制度を構築する上で日本に足りなかったのは経済力や軍事力といったハードではなく、そもそも「そんなこと」を考えたことがないという歴史経験に最大の問題があるのではないか。

例えば中国はその歴史において「パクス・チャイーナ」を実現した時期を確実に持っている。日中両国が東アジアの安全保障においてその主導権を争うことがあるとすれば、このような歴史経験の差が意外と大きなものとなって現れてくるのかもしれない。

2010/03/13/Sat.

新作ゲームの情報を見て、面白そうだなあとは思っても、買おうかなあとまではなかなか思えなくなってきた T です。こんばんは。

民明書房

機会があれば、架空の文章を架空の書物から引用してみようと思う。引用というか創作になるが。

読書日記

『未完成鉄道路線』はタイトルこそ胡散臭いが、なかなか面白かった。各地に点在する未使用のホームや路盤、または役所や鉄道会社の書類から、かつて存在したであろう (あるいは現在進行中であるかもしれぬ) 鉄道計画を推理するというものである。秋庭俊『帝都東京・隠された地下網の秘密』および同「2」とよく似ている。

『空想』の 2 冊はいつも通り。

2010/03/09/Tue.

弓を射たことがない T です。こんばんは。

読書日記

先日購入した本の中には、文庫版「怪盗ルパン全集」第二期配本がある;『八つの犯罪』『黄金三角』『怪奇な家』『緑の目の少女』の四冊である。

実感

先日の日記で「実感」という単語を括弧付きで多用した。「実感」は常にその存在が肯定的である。例えば「実感がない」ということは、すなわち「実感がないという『実感』がある」ということである。そしてもちろん、このようなことを書く私には「実感がないという『実感』がある、という "実感"」がある。以下同様。

もっとよく言葉を定義すれば良いのかもしれないが、土台無理な話である。定義というのは言葉を言葉で説明する行為である。では最初の言葉をどう説明すれば良いのか。結局、幾つかの言葉は無説明で使用するしか仕方がない。初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった。神かよ。要するに不可知なのである。

「初めの言葉」なんてものはなく、言語体系の中の相対的な位置によってそれぞれの言葉が定まると考えることもできる。そういう文脈的な捉え方もある。

——こういうことを考えていると何も書けなくなってしまうのだが、一種それを目的としているところもある。書けないことは書かなくて良いのではないか。下地の白を生かして光を描くがごとく、書かぬことで表現したり、徹底して書かぬことで「書けない」ことを示したり、そういうことが可能なのではないか。

まるで中島敦『名人伝』のような話であるが。

2010/03/07/Sun.

気晴らしに本をドカ買いしてきた T です。こんばんは。

療養日記

三週間ほど前に顔面がかぶれ始め、いつものアレルギーかと思って放っていたが、どうも帯状疱疹であったらしい。皮膚の下がグツグツと煮え滾ったように痛み始め、表皮を破って膿が噴出したときには慌てたものである。幸い、今は症状も治まり、瘡蓋が取れるのを待っている。間歇的に訪れる左眼奥と顳顬の痛みは鎮まっていない。

記号・言語・数学・科学

記号と言語と数学と科学の関係は密接ではあるが境界が不分明なところもある。

何度か述べたように、私の数学観はヒルベルト流の形式主義的なものである。数学は論理学の一種であり自然科学ではない。そういう考えに私は与する者である。もっとも、それが唯一無二の真理と考えているわけでもない。

私が数学を形式主義的に理解しているのは、数学的実在を「実感」できないからである。ある種の人間は、数学に実在を感じるという。彼らは数学を発明するのではなく発見するのだという。私にいわせれば、それは科学である。科学の対象はモノである。極言すれば、モノというのは実在である。だから、数学が科学であるような「実感」も存在するのだろうと思う。

私の「実感」は、いわゆる物質にしか実在を感じない。モノとして感じられるのは物質だけである。したがって、科学の対象が実在だとするなら、私の科学観は唯物的であるといえる。数学の例と同様に、物質に実在を感じられない人間もいるだろう。己以外の全ては幻という、唯我論的な「実感」もまた存在すると思われる。

原因と結果を混同してはならない。私は数学に実在を感じられない、故に、数学を形式主義的に把握している。私は物質にしか実在を感じられない、故に、科学観が唯物的になっている。全ては私の「実感」から導かれる結果論なのである。形式主義や唯物主義などのイデオロギーがまず存在しており、その内のどれが正しいのだろうかと選び取っているのではない

当然である。だが、イデオロギーやラベルを遠ざけ、自分の「実感」に耳を傾けるのは言うほど易くない。また、逆説的になるが、自分の「実感」を正しく把握するには、ある程度のイデオロギーやラベルを理解しておかねばならない。全てを「実感」からのみ構築しようとするなら、まずは言語の創造から始めねばなるまい。およそ不可能なことである。

言語はテキストという記号列によって表現されるが、単なる記号そのものではない。言語はいわく抜き難い「実感」と結び付いている。言語と意味の関係性はここに生じるのではないか。イデオロギー云々と同じく、「言語が意味を持つ」「意味を持った言語が存在する」のではない。我々は「実感」と接続する記号列を言語として認識する、そこに感ずる実在を意味として把握しているのではないか。

母国語以外の言語を思い浮かべよう。例えば私にとって英語は、言語と記号の中間のごとき実在感を伴う存在である。私は英語のテキストを形式的に理解することはできるが、生々しい「実感」とともに使役することはできない。論理的な記号列である数学についても同様。プログラミング言語や遺伝子の塩基配列など、言語と記号の狭間に位置するテキストは様々に存在する。

「実感」を伴う対象を言語-意味的に把握し、「実感」を伴わない対象は記号-形式的に理解する。これがひとまずの結論である。無論、言語的に把握できない「実感」、形式的にすら理解できない記号も存在する。

「実感」を持つ主体を「私」だとすれば、言語で表現できるのは「私」の一部でしかないということになる。

語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)

沈黙せねばならないというより、「沈黙せざるを得ない」「それは沈黙にならざるを得ない」といったところか。

2010/03/04/Thu.

引き続き頭が痛い T です。こんばんは。

研究日記

臨床試験のため、M 先生がラボの学生 6 名を連れて来京。ボス、S 科 K 助教、秘書女史、元隣の研究員嬢、ボスの長男君を交えて晩餐。S 科の教授には准教授の H 先生が決まったとの由。云々。

週末の学会は所属研究室が会長校となっているため少々の雑事がある。

3 本目の論文が PubMed から閲覧できるようになったため、恩師 K 先生他にメールで PDF を送付する。アドレスがわからず、Dr. A には連絡を見合わせる。御連絡を頂けると幸いです。

自分の論文を送り付けるのはいかがなものかと毎回思うのだが、逆の立場で考えてみると、知人から論文を送ってもらえればやはり嬉しいので、研究を続けられている方には成果を報告することにしている。

メールの中でも愚痴を零してしまったが、今後の身の振り方について頭を悩ましている。週明けも就職活動で出かけるのだが、果たしてこれで良いものか、今一つわからない。研究は続けたいが、突けば崩れるような生活基盤の上にヤジロベエのごとき研究環境を打ち立て、さらにその上層に成果を積み上げねばならぬという、昨今の若手研究者の現況はあまりにもヒド過ぎる。これは私憤ではなくて公憤のつもりだが、最近は公私の区別も定かではなくなってきた。私憤だとしたら怒っても仕方がない。で、就職活動をしている。

才なき者は去れ、という論法は理解できる。しかし今の状況は、才能ある人すら、それを十全に発揮できない感がある。この部分は公憤である。もったいないな、と思わずにはいられない例が多過ぎる。

漫画のリアリズム試論

画才があれば漫画を描いてみたいものだと思う。創ってみたいのはリアリズムを重視した漫画である。具体的な技法の案は幾つかあるが、わかりやすく代表的な例は以下の 3 つである。

描き文字

描き文字というのは、台詞やモノローグ (大抵は写植) 以外の「ドーン!」というやつである。これは擬音語と擬態語に別れる。爆発シーンの「ドーン!」は擬音語であり、人物が登場するときの「ドーン!」は擬態語である。「実際に音がした」という意味では、擬音語の描き文字にはまだ現実感がある。

擬態語の描き文字は——確信は持てないが——、映画やアニメの演出音からの、一種の逆輸入ではないかと推測される。この表現の初出については、かねてより知りたいと思っている。

興味深いことに、いわゆる劇画では擬態語の描き文字はほとんど見られない。擬音語は劇画にも登場する。むしろ劇画の方が本家である。黒々と描き殴られた「ドドドド」「バリバリ」という文字を見て、手塚治虫が首をひねったという逸話は有名である。

時間の表現

「時間の正確な表現」については、野球漫画を思い浮かべてみてほしい。投手の放った球が捕手に届くまでの僅かな時間に、チームメイトや打者が言葉を重ねて解説するというあの手法では、時間感覚が一時的に無視される。普通に考えれば、そのような短い間にあれだけの発言ができるわけがない。極めて漫画的な手法なのである。

興味深いことに、いわゆる劇画ではこのような時間感覚の無視はあまり見られない。

投げられた球を、コマを分割して細かく描写する、というだけの手法ならあり得る。これは映像におけるスローモーションと同じである。劇画でも見ることができる。

スローモーションのような表現手法とリアリティの関係はどうであろう。放送に喩えるなら、スローモーションが可能であるということは、それが一度「録画」された映像であることを意味する。漫画を、「生」ではなく、「録画」され「編集」された表現として理解することは可能だろうか。また、逆に、漫画の「生」的な表現とはどういうものだろうか。

一つの例として、『24』という映像作品を挙げることができる。

『24』は、複数の出来事がリアルタイムで進行し、全シーズンが 1 話 1 時間の全 24 話で完結する。

(24 -TWENTY FOUR- - Wikipedia)

黒々と太文字で大書されているこの特徴は、しかし筒井康隆『虚人たち』などによって、小説では既に達成されているものである。

それはひとつの例に過ぎませんが、こうした時間的省略のない小説というものが、過去になかった、というわけではありません。ジョイスの「ユリシーズ」は、作中人物の意識の流れを二十四時間、途切れ目なしに描写しています。サルトルの「自由への道」になってきますと、むしろ時間が現実以上に引き伸ばされているような感じを読者にあたえます。最近では井上ひさし氏がこれに近いことを「吉里吉里人」の中でやっています。私の場合、原稿用紙一枚が一分という計算で、時間の恒常性を表現しようとしました。したがってこの小説は四時間半ほどの出来ごとを省略なしに書いたといえます。主人公が気を失っている時間は、白紙になっているわけです。

(筒井康隆『着想の技術』「「虚人たち」について」)

上記のような、「時間の正確な表現」が漫画で可能だろうか。可能ならば、それはいかなる手法によって達成されるだろうか。

デフォルメ

リアリスティックな画風の漫画においても、ときに登場人物たちが低頭身にデフォルメされることがある。元の画風がリアルであればあるほど、そのギャップは大きくなり、効果としても顕著になる。

興味深いことに、いわゆる劇画ではこのようなデフォルメはほとんど見られない。これはむしろ、漫画が「写実ではなくデフォルメ」から始まったことに対する、アンチテーゼとしての劇画の特質であろう。デフォルメした瞬間、それは劇画ではなく漫画になってしまうのではないか。デフォルメの禁止は、いわば劇画のアイデンティティなのである。

リアルな……

俺が描いてみたい漫画の特徴として「描き文字の廃止」「時間の正確な表現」「デフォルメの廃止」を挙げ、それぞれについて簡単に論じた。また、これらの手法は、劇画において比較的よく達成されていることが確認できた。これは俺が全く予期していなかったことで、思わぬ収穫である。

さて、それでは、俺が描きたかったのは「よりリアリスティックな劇画」なのだろうか。この問いには否と答えたい。

一つには画風の問題がある。劇画を劇画たらしめているのは、上記の要素以上に、画風に負うところが大きい。画風を言葉で説明することは至難だが、少なくとも、上で論じた要素は画風と関係しない。鳥山明の画風で「描き文字の廃止」その他の条件を満たすことは充分可能である。

もう一つにはテーマの問題がある。劇画の画風と手法で「剣と魔法とドラゴンと恋の物語」を描くことは可能だと思うのだが、そのような作品は皆無である。実際には存在するのかもしれないが、少なくとも俺は読んだことがないし、絶対数として僅かであることは間違いない。

つまり、劇画を含む漫画全般において、テーマと画風と手法が密接に結合しているということがいえる。どのような芸術においてもそうなのかもしれないが、こと漫画においては、その点について非常に無自覚・無意識ではないのかという想いがある。

漫画における「リアルさ」は、主にテーマや画風と関係付けて論じられてきた。身近なテーマをリアリスティックな画風で描けば、それは「リアル」になるだろう。俺が試みたいのは、例えば、ファンタスティックなテーマを漫画的な画風で描き、しかしメタ・レベルの手法 (時間の正確な表現など) によってそれを「リアル」に感じさせることである。

(ここでいう「リアル」については「リアリティーと現実」で少し書いている)

俺が挙げた手法によって実際に「リアルな」表現となるかどうかは不明だが、漫画において、構造や枠組みによるリアリズムの追求はなされるべきだと想う。