- Diary 2010/02

2010/02/28/Sun.

頭が痛い T です。こんばんは。

「自分の言葉で語る」という言説それ自体が、既に他者によって自動化されたものである。この撞着を今さら云々するつもりはない。独自の文体という存在も幻影にしか思えぬし、ましてやそれが最上のものであるとも信じられぬ。記号からなるテキストに求められるべきは、意味の正確な伝達である。もっとも、それすら一種の共同幻想ではあるのだが。

ところで、自分が実際に見聞したことがない事物を用いた比喩をどう考えるべきだろう。例えば俺は「走馬灯」なるモノを見たことがない。したがって「走馬灯のように〜」という比喩は、俺にとって比喩でも何でもない。経験知として、テキストの中での「走馬灯」の使われ所を知ってはいる。しかし、純粋に考えれば意味不明の形容なのだ。俺は「槍玉」を知らないのでそれを挙げることもできぬし、苦虫を噛み潰したこともない。二足どころか一足の草鞋すら履いたことがないのだ。

このような、使い古されてはいるが、全く自分に経験のない比喩をどう扱うべきだろう。やはり排除すべきなのだろうか。己の体験や知識のみを喩えの材料にするべきなのだろうか。だが、「俺の踵のようにガサガサである」という比喩を、一体どれだけの人間が理解し得るというのか。俺が「比喩っていらなくね?」という結論をひとまず支持しているのは、このような理由に依る。

読書日記

2010/02/20/Sat.

これからはゲームについても積極的に書いていきたい T です。こんばんは。

「心も身体も美しく」というフレーズが意味するところは、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という悪名高い言辞と大して異ならない。そのことを非難しているわけではない。精神と肉体が連動しているのは当たり前である。問題は、全てが「言い方」に集約される現状にこそある。

サラダ記念日

サラダ記念日というあの歌をどう評価するかで、その人の文学観のある一面が端的に現れるのではないか。まず詩歌に対するスタンス、次いでポエムに対するスタンス。俺が「ポエム」というとき、それは蔑称である。念のため断っておくが、サラダ記念日がポエムだといっているわけではない。

俺はサラダ記念日を一種のコピーだと思っている。あの歌の excellence はコピーとしての excellence である。ドレッシングの写真の横にあの歌を書いてみればよくわかる。俵万智という人をコピーライターとして眺めてみても違和感はない。

占いの科学性

「血液型占いに根拠はない」という証拠はないので、血液型占いの妥当性は否定できない、というのが科学的に誠実な態度である。「血液型占いなんて非科学的だよ」という言説こそが短絡で非科学的なのだ。非科学的と言明したいならば科学的な証拠を出さねばならぬ。もっとも、そのためには「性格」に代表される人間の特性を定義せねばならず、その時点で「科学」を標榜することは不可能だが。畢竟、占いを科学の土俵に上げること自体が無理なのである。

そも、占いが科学的に解析されるならば、それは既に占いではなく「予測」である。したがって「占いは科学的か非科学的か」という議論それ自体が、正月の盆踊りのように得体が知れぬ戯言に過ぎない。

占いにおける未来観

占いは、未来あるいは運命をどう捉えているのだろうか。「道を右に曲がれば死ぬ」という占い結果が出たとしよう。

未来が変えられる (運命は決定されていない) のなら、道を左折することで死を回避できる。果たしてそうなったとして、ではこの場合、占いはいったい何を占ったのだろうか。起こらなかったことを占ったとはどういうことだろうか。この占いは外れたのだろうか。

未来は変えられない (運命は決定されている) のなら、死を覚悟するのが精々である。運命決定論ならば、その覚悟も、占ったことすらも運命通りなのであるが。占うことすら運命に組み込まれた世界における占いは、いったいどういう意味を持つのだろうか。

多元宇宙論を採用することもできる。占ってもらった「私」が今いる「この宇宙」が、「右折して死ぬ私」「左折して生きる私」それぞれが存在する宇宙へと分岐するわけである。左折することで「この宇宙」は「生き延びた私が存在する宇宙」になる。右折した私もどこかに存在するのだろうが、それはまた別の宇宙の話である。多元宇宙論における占いは、別の宇宙を見る行為であると把握できる。しかしこの場合、私とはいったい何かという深遠な疑問が残る。

裏技・バグ技・チート

ゲームの話である。対人戦については考慮していない。

このネット時代、「知っている人だけが知っている」という意味での「裏技」が消滅して久しい。この言葉を目にする機会自体が減った。使っているのは年少者か頭の弱い人だけである。彼らは「バグ (技)」「チート」という単語も好んで使用して、大抵は叩かれる。

ある程度以上に年季の入ったゲーマーならば、ゲームを、単なるゲームとしてではなくプログラムとして把握し、またそのことに楽しみを覚えていることと思う。つまるところ、ゲームの攻略とはプログラム内容の推測である (解析は hack になってしまう)。AI、マスクデータ、計算式、フラグなどなどを推測し、仮説を立て、条件を整え、実際にプレイして検証する。まことに科学的である。嘘だと思うなら、そこらの検証スレッドを覗いてみればよろしい。

話が逸れた。語の定義である。

となるだろうか。最近では、これらの技がネットによって急速かつ広範に拡散するようになったため、特に「裏」という響きが似つかわしくなくなってきた。「裏技」が死語化しつつある所以である。

上記の定義でわかると思うが、それが裏技なのかバグ技なのかチートなのかは、プログラムの仕様や挙動、作製者の意図などを理解していないと判定できない。プログラムを理解した上での超絶プレイと、hack によるチート・プレイは、ゲームの遊び方として全く別の方向性であるが、年少者や頭の弱い人はこの区別が付かないので叩かれるのである。

2010/02/10/Wed.

少し前のことになるが、プリンタを買ってきた T です。こんばんは。

「関西にはたくさんの空港が必要です」と掛けまして、「大変ありがとうございます。恐縮です」と解く。その心は「いたみいります」。

現行の生物学に要求される物理学の知識は古典的な範囲に留まっている。原子が、陽子・中性子・電子から成り立っているというレベルの認識で困ることはないし、支障をきたす理論もない。だからといって、それより下位の物理的構造や情報が生命現象に関係していない、ということにはならない。この問題については何もわかっていない。話題に上ることもないから、どの程度認識されているのかも不明である。

『君主論』をマニュアルか何かと勘違いしている馬鹿者が多い。『君主論』の精神を実践したからといってマキャヴェリ流の君主になれるわけではない。君主がマキャヴェリストになることと、マキャヴェリストが君主になることとは全く別の話である。マキャヴェリズムを実践することでリーダーを目指している人間は、実にこの点を誤解している。マキャヴェリズムは君主のための処方箋なのであって、君主になるための必要条件ですらない。

もし世界中の人間が俺であったら

「もし世界中の人間が俺であったら」という妄想が、幼少の頃から定期的に頭を過る。「俺 "だけ" であったら」ではない。現在の世界はそのままに、全ての人間の特性が「俺」に変わるのである。

この妄想の初期条件には色々とヴァリエーションがある。例えば、明日から急に全員が「俺」になるのか、それとも徐々に入れ替わっていくのか (例えば明日から生まれる人間は全て「俺」である、など)。お互いがお互いを「俺」であることを認識しているのか否か。などなど。

この妄想が湧いてきたときに、一番最初に気になるのが、「俺だけで原子力発電所を運用できるのだろうか」ということである。なぜ原発が気になるのかはわからない。とにかくこの疑問が出てくる。「きちんと訓練さえ受ければ、既存の発電所を運転するだけなら何とかなるだろう」と考えて、ひとまずは安心することにしている。

大局的な社会について考えるのはなかなか楽しい。世界中の人間が俺であり、そのことを俺たちが認識していると想定すると、まず犯罪は起こらないと考えられる。警察の犯罪部門や、軍隊などが不要になる。折衝についても、大体においてスムーズに合意できると想像されるので、大きなところでは外交、小さなところでは各種の契約が簡潔になる。三権も極めて簡素になるだろう。

俺が興味を持たない産業や分野は壊滅する。あらゆる規格は統一され、その統一規格における商品のヴァリエーションも激減する (この世に「好み」が一つしかないので)。

職業の割り振りはどうなるだろう。例えば、研究をしたい俺は多数いるはずであり、役人をしたい俺は少数のはずである。この場合、俺がしたくない職種の賃金をべらぼうに上げることで何とかなると思われる。やりたい仕事に就いている俺は貧乏であり、やりたくないことに従事している俺は金持ちなのである。なかなか面白い社会である。あるいは、全ての職業を交代制にしてもよろしい。全員が俺であるので、そのような突飛なシステムを採用することもできるだろう。

この妄想社会を考察するとき、「女性はどうなっているのか」は最も回答が困難な質問である。いまだ上手い解決策を思い付いていない。

この社会では、学問や技術、文化の発展が俺の潜在能力を越えることはない。学問や技術は積み重ねの部分もあるので、極めて漸進的だが進歩し続ける可能性はある。「世界中の人間が俺だけであったら」という想定は、「俺が不老不死であったら」という仮定とほぼ同じである。何もできなさそうでもあり、思ったより色々とできそうな気もする。

2010/02/06/Sat.

少し前のことになるが、プリンタを買ってきた T です。こんばんは。

ようやくというか、ついにというか。良くも悪くも、家で仕事がし放題である。

購入したのは、プリンタとスキャナが一体化した複合機というやつである。単体でもコピー機として使えるのが素晴らしい。インクジェットだが速度に不満はない。これで 8 千円というのだから、随分と安くなったものである。両面印刷のときに手で紙を差し替えるのは面倒だが、この値段なら我慢せねばなるまい。

世界はどこに行き、どこから来るのか

「私はどこから来て、どこに行くのか」という設問は果たして正しいのか。「私」を基準にするなら「世界はどこに行き、どこから来るのか」とも問えよう。宇宙には原点となるべき空間が存在しないから、上記のような問い方もあながち間違いではなかろう。この質問は同時に、時間について尋ねているようにも感ぜられる。

読書日記

池田清彦『科学はどこまでいくのか』という書物を開いてみたが、1 分で読むのを止めた。

しかし、科学はそんなにも信用できるものなのだろうか。

(中略)

科学は、核兵器を作り、公害を増加させ、人口問題と環境問題をのっぴきならないところまでもってきてしまった元凶である。

(「はじめに」)

この人は何を言っておるのか。

科学 (science) とは、自然 (nature) がどのように成り立っているのかを説明するために、事実と事実 (facts) を論理 (logic) で繋いだ仮説 (hypothesis) の体系である。ただそれだけである。もちろん、fact は真実 (truth) ではない。観測の閾値や実験の誤差など、様々な限界もある。しかし、科学はその自覚の内側にしか存在し得ないので、科学を「信用」するとかしないとか、そういう議論自体がナンセンス——非科学的——なのである。

科学がいえるのは、証拠 (evidence)、つまり実験結果という fact から、「これこれこういう理屈で原子が崩壊するらしい」ということだけである。その理論 (theory) を応用して核兵器の原理を打ち立て、モノとして顕現させるのは技術 (technology) である。Science ではない。

そして、核兵器の製造を決定し、その費用を出し、あるいはどこに配備し、どのように運用し、あるいは落としたり落とさなかったりを決めるのは政治 (politics) である。技術も科学も全く関係ない。

この人は、元寇の原因を船大工に求めるとでもいうのか。全く馬鹿げている。

公害や、人口や、環境の問題は政治と同時に経済が主たる原因ではないのか。科学が発展しなければこれらの問題は起こらなかったと強弁することはできる。しかし、それが許されるのなら、言語や数学を「元凶」として槍玉に挙げることすらできる。ムチャクチャである。便所紙以下の本である。

ところで、槍玉とは何であろうか。私は見たことがない。