- 近現代史について

2009/12/22/Tue.近現代史について

咽喉が痛い T です。こんばんは。

最近はロクに仕事もせずに、将来どうするのかということばかりを考えては憔悴する、という不毛な行為を繰り返している。来年度は大学院の最終学年であり就職活動をしなければならぬのだが、どちらに向かって突き進めば良いのかすら全くわからぬ有り様である。一時は真剣に留学を検討していたが色々と思うところがあって今では棚上げになっている。が、留保しているだけで棄却したわけでもない。研究を続けるのか辞めるのか。続けるにしても企業に行くのか学界に残るのか。国内にするのか海外にするのか。新しい分野に挑戦して視野を広げるのか、はたまたこれまでの研究との接続を残して深化の方向を探るのか。決めかねておるうちに時間だけはどんどんと経って、気が付けば今年も終わりである。

やりたいことはないのか。そう自問もするが、そのような単純な設問に答えるだけで意思決定ができる時期はとうに過ぎ去った。仮に「やりたいこと」を重視するにしても、目先のやりたいことのために将来のやりたいことを犠牲にするのか、あるいは逆か、などといった問いが無数に発生してくる。若かった頃に比べ、ある意味では様々な展望が見えるようになったため、余計に決定しかねるのである。

以前から暗い話題しかなかった研究業界であるが、政権が代わってからはもはや暗黒といってよろしい。公的な機関における研究という仕事は自ら利益を上げることが絶望的なので、どうしても他人頼みの操業になってしまう。奥床しく慎ましやかな日本の研究者たちはそのことに対して大なり小なり後ろめたい感情を持っているから、これまで声を大にして予算予算とは言ってこなかった。それどころか雀の涙ほどの研究費を有り難い有り難いと感謝して使ってきたのである。公金の不正使用が絶無であったとまでは言わぬが、その件数は他の公的事業と比べ隔絶として少ないはずである。日米の公的研究資金には 8 倍の差があるという。日本の研究水準を考えれば、我が邦の研究の費用対効果の素晴らしさがわかろうというものだ。それを拡充するのではなく削減しようというのだから、もう理解の埒外である。

この国はダメなんじゃないか。それは悲嘆であり憂慮であり憤慨であり、つまりは信頼と期待と愛情の裏返しでもある——あったのだ。本当にダメだと思ったことはなかった。しかし最近は、「これはもうダメかもわからんね」という絶望と諦観に変わりつつある。とはいえ、これからも日本人として生きていかねばならぬので、将来をどうしようかと悩むのである。かくして話は冒頭に戻る。

どうも愚痴っぽい。風邪をこじらせて弱気にでもなっているのか。

3 本目の論文については、カラーモードを変更した figure のファイル (gray scale → RGB) を送れば事足りると判断したが、これは完璧な誤解であった。先方の要求は「紙面を華やかにするために figure を colorize しろ」であった。写真や概念図であれば喜んでカラー化するが、論文に付された figure のほとんどが 2 群間を比較する棒グラフであり、白黒で充分である。というか、白黒が一等明瞭である。彩色することに scientific な意義は寸毫も見出せない。

一人の研究者として、できることなら塗りたくない。しかし、一人の業界人としては、論文を publish するため (= 業績を稼ぐため = 研究費を獲得するため) に塗らねばならぬ。困った。カラー化することに何の意味もないから、何色を塗れば良いか判断がつかぬ。そしてそんなことに頭を悩ましている自分に腹が立つ。何という時間の無駄か。

また愚痴になってしまった。

近頃は本当に寒い。我が家は古い建物で、恐らくではあるが、部屋の内壁と建物の外壁が一体化している。外の寒さが壁を通して伝播してくるので、エアコンを付けてもヒーターを焚いても、一向に部屋が暖まらない。おまけに床は——フェイクではなく——板張りである。そんなところに薄っぺらい布団を直に敷いているものだから……、いや、これも愚痴であるな。

以前より日本史は好きであったが、ここ数年の関心は専ら近現代史に集中している。この数日で、華族、日露戦争、瀬島龍三についての本をそれぞれ読んだ。

「歴史上の出来事」を現在から過去に遡って証明することはできない。である以上、テキストとしての歴史は物語にならざるを得ないというのが私の主張である。今思えばこれも唯我論的主張ではある。私が触れ得ないものは確と知り得ない。これは不可知論でもある。

さて、とはいっても、「歴史があったこと」は動かし難い事実である。私という存在がそれを担保する。唯我論的に極言すれば、「世界は 5 分前にできた」といえないこともない。しかし私はそこまでの懐疑論者ではない。歴史があったであろうという実感は抜き難くある。この実感というものが非常に重要である。そう思えるようになってきた。形而下というにはあまりにも生々しい、この実感という場所から考えていく他はない。〜論的な発想が先行するわけでは決してない。理論は私の実感に便宜上の名前を付けるだけのものであって、それ以上のものではない。

話が逸れた。とにかく、「私との接続」という観点で近現代史に興味を覚える。接続しているというのは幻想かもしれないが、今はそれを確認する知識もない。たかだか 100 年前までのことについて、我々は驚くほど何も知らない。そんなことをいえば、500 年前のことも 1000 年前のことについても全くの無知なのだが、これらの時代についてはほとんどが原理的に「知り得ない」のに対し、近現代については知り得ることが多くある。同じ歴史といえど、もはや別ジャンルといっても良いくらいだ。遅ればせながら、その魅力に目覚めたところである。