- 二つの在り方

2009/12/14/Mon.二つの在り方

人間には 2 種類があって——、という導入は好まない T です。こんばんは。

どうも唯我論的な在り方と唯物論的な在り方があるらしい。前者はアプリオリに「私」があり、その認識の結果として世界がある。いわば「私があって世界がある」という人種である。後者は先験的に世界があり、その中に「私」というものが誕生する。つまり「世界があって私がある」のである。

唯我論的な人間にとって世界は自己の表出でもあるから、わざわざ足を運んで何かを見聞することに高い価値を覚えない。彼が探検するべきは「私」の境界面 (この膜状に世界が顕現する) である。これは「私」内部の運動や構造に大きく影響されるから彼の冒険は自らの内側に向かう。彼は彼独自の規則を遵守し、ときに錬磨することでその世界を豊穰にする。

唯物論的な人間は広大な世界の中に存在するから、彼はあちこちへと運動することによって世界を吸収し生の充足を得る。この世界は緻密に構成された秩序から成り立ち、「私」もまたそれに則って存在する。したがって世界を観察することでその一要素である「私」に対する理解も深まる。この共有される規則をときに科学ともいう。

唯我論的な在り方を唯物論的な方法で理解しようとしたり、唯物論的な在り方を唯我論的に捉えようとするあたりに、この日記の垢抜けない煩雑さがあるのではないか。己の感覚に理屈を付けようとしたり、サイエンスをやりながら「でも違うんじゃね?」と自問したり。例えば俺はテキストを記号だと思う一方で言霊というものも信じてもいる。そして記号にも霊性が宿るとも想っているし言霊にも明らかになっていない理論があるのではと考えてもいる。かけ離れた二つを結合したいという願望もあるし、両者はコインの裏表で実は一つのものなのではないかという予感もする。

要するによくわからないのである。