- 勘

2009/11/11/Wed.

勘は鈍い方だと思う T です。こんばんは。

長らく日記をサボっていたせいか、書きたいことが色々と出てきた。さてそれでは、と勢い込んでもロクなことにならないので、今日もつまらぬ話でリハビリをする。

俺は「勘」というものを「言語化されずに出てきた脳の結論」と捉えているので、勘が働いたときは、

ということを心掛けている。

世に「女の勘は鋭い」などというが、仮に我が仮説を是とするならば、これは「女性は言語化が苦手である」という俗説とも合致する。与太話としては筋が通るので面白いが、もちろん真面目に信じているわけではない。

ところで、言語化されてなかろうと、あるいは論理的には飛躍があろうと、結論は結論である。そこに行き着くには経過があったはずである。勘におけるその過程を「思考」と呼べるや否や。換言するなら、言語は思考の必要条件であるや否や。これは辞書的な定義の問題であるから、つまらぬ設問ではある。重要なのは、脳の活動のどこまでを自らのものとして認識活用するかという点にある。もしくは、どこまでを自己として自覚認知するのかという問いにある。

一例を挙ぐれば、心神喪失による倫理的責任をどう考えるか。ここまでが「私」である、と線を引いた瞬間に、私は私以外の何物かをその内に抱えることになる。これは心身二元論でもあるが、心に「私」が宿ると主張するなら、いったい身体に巣くっているのは何物であるのか。どうも二元論はその点について曖昧である。

勘を働かせているのは何物かを考えると、そういう疑問に落着する。俺は「勘」も「私の経過、私の結論」だと思っているので、一応こだわることにしている。