- 生きたがり

2009/06/13/Sat.生きたがり

線香臭い日記を書いてしまった T です。こんばんは。

やたらと長生きをしたがる人間がいる。あれは何なのか。目的もなくダラダラと生きても仕方がなかろう。しかも、「そんなことをしていると長生きしないよ」と他人の心配までする。大きなお世話だ。余計な心配をしていると、長生きできないぜ?

死そのものについて考えても仕方がない。思いを巡らすとしても、ジジイになってから、あるいは瀕死の重病を患ってからでよろしい。俺はまだ (平均寿命という観点から見て) 若いので、思考は生の方向に傾く。死は生の終点として存在する。したがって、「明日死ぬとなれば如何」、これは生についての問いなのだ。

未練あって後悔なし、という答えが、現在を生きる者にとって良い状態ではないか。「あれをやりたかった」、これが未練である。将来の実現可能性という意味で、生への positive な執着ともいえる。未練が生きる目的となり糧となる。これがないと、「目的もなくダラダラと生き」ることになるのではないか。

「あれをやっておけばよかった」というのが後悔である。過去は変えられないので、これは生への negative な執着ともいえる。後悔は少ない方がよろしい。といっても、既に起こってしまったことはどうすることもできぬ。だが、後悔を活かし、それを recover する目的を立てることで、未練化することはできる。

未練は多過ぎても少な過ぎても良くないように思う。未練が多いと、やはり長生きしたくなるのだろうか。このあたりはやや曖昧だ。

「長生きすることでたくさんの目的を達成できるのでは?」という問いを立てることもできる。まず、人間の能力は年齢とともに衰えていくことを考える必要がある。長生きとは「老年期の増加」である。その目的は老年期の能力で達成可能か? 不能になってからハーレムに行っても仕方がない。下品な例だが、つまりはそういうことである。よほどの若死にをしない限り、人生における真に活動的な時間は、長生きの人も早死にの人も、そう違わないのではないか。

敬老の日には老人に「長生きしてね」というのが慣例になっている。言われた老人はニコニコしているが、あれは子なり孫なりにそう言われたことが嬉しいだけであって、彼らは本当に長生きをしたいと思っているのだろうか。そういうことを考えると、ちょっと怖くなる。老人の生に対する執着がいかほどのものであるか、あまり語られることがない。若者にはわからぬ。筒井康隆『敵』などの小説が恐ろしいと思うのは、この未知の心理に触れているからである。こういう話は、もっと出てきても良い。

「死にたがり」は中二病の専売特許だが、普通、人は死にたがらない。死にたくない。誰でもそうだろう。しかしどれほど生きたがっているのか。死への忌避 (死にたくない) と、生への執着 (生きたい) は同義ではない。よく混同されて使われるが、両者を峻別して考えたときに人はどういう回答をするのか。長生きしたい人は、本当に生きたいと思っているのか。死にたくないだけではないのか。疑問は尽きぬ。