- Diary 2009/03

2009/03/31/Tue.

やや過食気味の T です。こんばんは。

研究日記

無事に 2008 年度を終わることができた。今月は留学中の先生の新ラボの立ち上げでムチャクチャだった。

という作業を、

という環境で行った。

様々な仕事と障害があったが、面倒なので一々は書き上げぬ。疲れた。「っていうか大学院生の仕事じゃないですよね」という新テクニシャン嬢の言葉は正しいが——、文句を言うのは仕事が終わってからである。君も給料を貰うようになればわかるさ。

京都に来てから 4 年間、大学院の残りが 2 年間。次の段階をどうするかも、そろそろ具体的に考えねばならぬ。良い仕事をしたい。

2009/03/30/Mon.

恩師に癒された T です。こんばんは。

研究日記

3 月 23 日 (月)。2 本目の論文が accept された旨、Dr. A、Dr. B、Dr. ヒゲマンら諸氏にメールで報告する。MO 君にも送ろうと思ったが仕事先のアドレスが不明だったので保留する。この日記を読んでいたら連絡下さい。

3 月 24 日 (火)。上記と同様のメールを恩師 K 先生にも送る。

3 月 25 日 (水)。K ラボの後輩チェリー嬢 (京都在住) から携帯電話にメールあり。翌 26 日に K 先生御夫妻が京都に来られるので一緒に呑みましょうとのこと。K 先生からも返信あり。「今はまずまとめて資格を取る事です」の一文が理解できず苦しむ。博士号は資格ではない。仮にそういう意味だとしても「まとめて」とはどういうことか。他にまだ資格が要るのか。「まず」というからには喫緊なのか。よくわからない。

その後の一文、「気持ちを大切にして、じっくりと自分の目指す研究を成し遂げてください」に深く感じ入る。今週は年度末の事務に忙殺されて科学的には何もしておらず、諸氏にメールを送ったのも息抜きのためだったのだ。雑用を呪うことは簡単だが、しかしそのために本来の目的を後回しにしてはいけない。自戒するためにナンチャッテ七言絶句を作った。自分では気に入っている。

年度末事務過重 今昼亦不能摂食 有手紙自恩師来 汝成遂己望研究

3 月 26 日 (木)。K 先生御夫妻、チェリー嬢と大学付近で待ち合わせ、バスで京都駅へ。京都に来てから丸四年、バスに乗るのはこれが初めてである。駅の近くの呑み屋に落ち着く。K 先生は変わらず元気そうで安心する。少し遅れて、K ラボの隣の S ラボの O 嬢 (修士卒業、春から関東の大学院へ進学) が来京して参座。色々と話は尽きない。

K「学位取ったら留学するの?」
俺「したいですね」
K「留学するならその前に結婚しないと」
俺「(今のボスと同じことを言いやがるな) そうですね」
K「結婚しないの?」
俺「Dr. B と Dr. ヒゲマンを差し置いて僕が結婚するのはちょっとハハハ」

上記の話を本日、メールで Dr. B と Dr. ヒゲマンに送った。その直後、K 先生が同じ内容のメールをやはり両氏に送っておられた (俺にも cc で回ってきた)。動きがカブってやがる……。

2009/03/23/Mon.

有給休暇を温存したまま今月末で現職を辞する T です。こんばんは。

研究日記

3 月 18 日 (水)。テクニシャン嬢、M 先生、先輩研究員女史の送別会。テクニシャン嬢は結婚、M 先生は栄転、先輩研究員女史は旦那の栄転に伴う引っ越し、ということで実にめでたい。参加者多数で大いに盛り上がる。

3 月 19 日 (木)。テクニシャン嬢の最終日。夕方から病院に行き、お世話になった諸氏に挨拶。夜はボス、秘書女史、元隣の研究員嬢と一緒に食事をし、テクニシャン嬢の門出を祝う。

3 月 20 日 (金)。大阪国際会議場で学会。京阪電鉄中之島線ができてアクセスが便利になった。午後のセッションで発表。だいぶ英語の発表に慣れてきた。スライドの枚数を大胆に削るのがコツか。日本語の発表と同量のデータをプレゼンテーションしようとすると上手くいかない。細かいデータを省いておくと質問もされやすく、気まずい雰囲気にならなくてよろしい。

3 月 21 日 (土)。引き続き学会に参加。夜は中之島近辺で食事。山梨の玉葱が美味かった。

本日は有給休暇を取っていたのだが、業者がメーカーの方を連れてきて下さるので午前中だけ大学に行った。事務的なメールを書いて、昼には退出。

YouTube Today

四足歩行のロボット。障害物を乗り越えたり、雪や氷の上を歩いたりと、バランス感覚が素晴らしい。

全くの憶測だが、このロボットの歩行アルゴリズムは昆虫的なアプローチを採っていると思われる。「昆虫的」というのは個人的な用語で、無理に言語化するならば、「目的達成の手段として、基本的に記憶・推測・思考・学習などを用いず、単純な条件の機械的な組み合わせのみに頼るが、客観的には複雑かつ洗練された行動様式を見せる合目的的システム」とでもいうべきもの (あるいは性質) である。一言で「反射的」といっても良い。走性はその簡単にして代表的な例である。

恐らく上記のロボットは、カメラの映像から障害物の存在を知覚して「次の一歩は足を高く上げよう」などと「考えて」いるわけではない。このロボットがしていることは、

そういう単純な繰り返しではないか (障害物を登るシーンを見るとわかりやすい)。このロボットが観察して思考して判断しているわけではないだろう。このロボットでデリケートなのは、パラメータの設定やロボット本体のエンジニアリングだと思う。

自律的に学習するシステムは魅力的だが、仕組みがわかっていないものを工学的に作ることは不可能である。「結果として似たような現象」を作り出すことは技術で可能だが、だからといってそのシステムが対象の本質を反映しているとは限らない。「飛べるから」といってコウモリの飛膜を研究しても、鳥類の翼膜のことはわからない。人工知能や脳科学の一部にはこの種の怪しさが存在する。

この話題は「数学的モデルが自然現象をよく説明するのは偶然か必然か」という問いにも接続する。例えば、上記のロボットは、生物のを参考にして設計されたのか、それとも歩行を極めようとした結果として「生物的な」フォルムに行き着いたのか、——極めて興味深い。

2009/03/17/Tue.

また視力が下がってきたかなと感じている T です。こんばんは。

研究日記

相変わらず花粉症がヒドい。昼食以外は休憩も外には出ず、机の前に座って 4 本目の論文 (もうこれ以上どうにもならない古いデータの寄せ集め) を書いたり、書類を作ったり、調べものをしたり、メールを書いたり、諸々。隣ではテクニシャン嬢が実験をしているが、彼女の出勤も明後日が最後であり、のんびりとやってもらっている。

明日はラボの送別会。明後日はテクニシャン嬢がボスに退職の挨拶をするので同行する予定。明明後日から 3 日間は大阪で学会。来週からは新しいテクニシャン嬢が来るので、仕事を教えていかねばならぬ。

4 月 12〜13 日は東京で学会。ジョー兄にメールを送らねばならぬが、忘れそうなのでここに書いておく。

以下も覚書。俺が日記で「科学」「サイエンス」と書くとき、それは自然科学を指し、数学はこの範疇に含まない。数学とは任意に設定された公理群から演繹的に導かれる体系の集合であり、自然現象と直接の関係はない。ところで、数学的モデルは自然現象を実によく説明する。このことを当然と思うか不思議と思うか——、これはその人の科学観に直結する興味深い問題だと思う。

今日のニコニコ動画

2009/03/16/Mon.

ボスと呑んできた T です。こんばんは。

研究日記

今週末に学会があるので、発表の準備を進めている。他には、投稿論文の response letter の作成、年度末報告書の執筆など、事務仕事に追われている。

夜のセミナーでは学会発表の予演。その後、ボスと 2 人で呑みに行く。

あぶない政治家

麻生内閣は閣僚のキャラクターが立っていることは間違いない。

あぶない政治家

2009/03/09/Mon.

一息ついた T です。こんばんは。

研究日記

再々投稿した 2 本目の論文が accept された。Journal の IF は 1 本目のそれより低いが、なるべく早く出すことが 2 本目の第一目標だったので不満はない。目標とした期間は 1 本目の accept から 1 年以内、実際の結果は 13 ヶ月後だったから、まずまずといったところか。

まだ学位を取得していない俺に必要なのは「ちゃんと論文が書けます」という客観的な証明であり、小さな仕事でも良いからコツコツと publish を重ねることが今は大切だと思っている。

3 本目の論文は再投稿に向けて書き直し中。これにケリが付いたら、大学院の残り 2 年間で、impact を重視した仕事ができればと願っている。

2009/03/08/Sun.

篆刻に挑戦してみた T です。こんばんは。

印を自作したくなったので、画材屋で材料を調達した。

安い。0 が一つ足りないのではと訝ってしまう。この中では『石を彫る』が一番の出物だった。

何を彫るか。色々と考えて「修羅場混」の 4 文字に決めた。以前、このサイトが「修羅場、どっと混む」と名乗っていたことに由来している。

(もう一つの案は「変態紳士」だったが「変」の篆書体が複雑過ぎて断念した)

難易度が低い陰刻 (文字の線を彫る = 文字が白く抜ける [白文]) で作成を開始。『石を彫る』の篆書字例を参考に、コピー用紙に「修羅場混」と濃い目の鉛筆で書く。この紙を石材に押し当て、適当なモノでこすると反転した文字が石材に転写される。念のため、転写された文字を油性ペンでなぞっておいた。

切り出しで文字の線を彫り出す。石材は意外と柔らかいので難しくはない。平刀は使わなかった。

彫刻には 2 時間ほどかかっただろうか。完成したら、朱泥を付けて捺印。バックの赤地がなかなか綺麗に出ないが、印と朱泥が馴染んでくるのか、何度か捺している内に鮮明になってくる。練習して、美しく捺印できるようになりたい。

修羅場混之印

2009/03/05/Thu.

継続し続けることは難しいと思う T です。こんばんは。

日本が神国である理由は簡潔である。

大日本 (おほやまと) は神国 (かみのくに) なり。天祖 (あまつみおや) はじめて基 (もとゐ) をひらき、日神 (ひのかみ) ながく統を伝給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国といふなり。

北畠親房『神皇正統記』

「国を開いた神の系譜が続いているのは日本だけである。だから日本は神国である」。極めてロジカルで、形式的とすらいえる。「国を開いた神」を科学的に否定することは容易だが、この立場を取るならば、天地創造に代表される世界中の神話の否定、ひいては全宗教の否定 = 前提の否定につながるのでここでは論じない。上記引用の最後の一文は定義であるから、やはり問題にはなり得ない。

すなわち論の対象となるのは以下の「事実」である。

ゆえに日本はユニークなのだ。それを「神国」と定義しているだけで、ラベルは何でも良い。重要なのは、国としてのアイデンティティである。

「神の系譜が続いている」ことを担保するのが、男系男子の継承と三種の神器の伝世である。前者は継続を、後者は正統を証明する。これを国体という。

以下はポツダム宣言受諾に関する昭和天皇の聖断である。

当時私の決心は第一に、このまヽでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護する事が出来ない。

第二には国体護持の事で木戸も仝意見であつたが、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思つた。

『昭和天皇独白録』

この発言は昭和 20 年 8 月 9 日のものとされているが、広島や長崎に関する言及はない (「私の決心」の「第一」が広島・長崎を含むという解釈はできるが)。代わりに述べられるのは神器による国体の護持である。

「日本は神国」という言説は、実は倒錯している。神国は唯一なのだから、「神国である日本」が正しい。神国でなくなれば日本でなくなる。ゆえに日本国の存続を目的としたとき、国体の護持が最優先課題となる。女系天皇の誕生が大問題なのは、それが国体の喪失を意味するからである。

我々が日本人であるのは、日本が神国だからである。

2009/03/03/Tue.

今春の花粉には免疫系が応答している T です。こんばんは。

研究日記

大学への引っ越しもほぼ終わり、今日は、一時帰国された留学中の先生を新しいラボに迎えることができた。自分の城となる研究室を検分された先生の機嫌はいやに良く、準備をした俺とテクニシャン嬢はひとまずの安堵を覚える。今後の研究方針を簡単にディスカッションして早めに散会。先生はボスと二人で呑みに行ったようだ。

明日は、来年度からラボに参加することになるポスドクとテクニシャンが来訪して先生と面談。その後、ボス主催の研究会で俺と先生が発表。夜は懇親会の予定。

明明後日は新しいラボが所属する研究所の送別会。先生は今週末には再び留学先に戻るので、俺と二人で呑みに行くのは明後日となるだろう。

2009/03/02/Mon.

日本語の枠組みの中でしか語れない T です。こんばんは。

俺の生活の大半は仕事、読書、ゲームで成り立っており、この三者が面白ければ概ね幸福である。仕事とはサイエンスのことだが、それを踏まえて考えると、この三者はいずれもヴァーチャルなものであることに気付く。

科学は事実と事実を論理で接続した体系である。したがって無論、仮想的なものではないが、感覚レベルにおいても現実的かといえばそうではない。飯を食う、ウンコをするなどの行為に比べれば、「細胞の中で遺伝子が発現している」「銀河系は広大な宇宙空間を高速で移動している」という現象に手触りはなく、もっぱら頭で理解しているだけである。慣れれば感覚的にも捉えられるが、生々しさの発現には至らない。ノンフィクションを読んだ感想と似ている。そういう意味で「ヴァーチャル」と書いた。

実際の現実世界には大して期待をしておらず、かといって絶望しているわけでもない。最近はネットでニュースを読むことすら稀になったが、別段困らない。皆が触れている情報に自分が触れる必要はない。大抵はどうでも良いことだ。

ヴァーチャルな世界、現実の世界とくれば、最後の一つ、本当に個的な精神世界・霊的世界にも触れる必要が出てくる。しかし、この世界は表現した途端にヴァーチャルなものへと変容してしまうので扱いが難しい。不立文字。と言ってしまった刹那、それは思索や学問の対象になってしまう。「不立文字」は単なる字であって、個的な世界の何かを漠然と指し示しはするが、それだけと言えばそれだけである。

個的な世界を語ろうとするとその不完全さに苛立ちが募るが、それはアプローチが逆だからだ。あらかじめ枠組みを用意し、その中で個的な世界を語れば良い。いずれ語りは不充分に終わるが、それは語りに原因があるのではなく、枠組みが不満足だからである。そう解釈すれば楽になる。そもそも語りは「共有」を目的としているから、その時点で「個的」ではなくなる。無理が出るのは当たり前のことだ。

「個性的だ」と評価されることは、対象となる個性とやらが評価軸 = 既存の価値観の上に存在していること意味するだけで、極めてつまらない。相手の物差しで計ることのできる程度のものが個性だとは思わない。そういう観点で見ると、例えば北九州連続監禁殺人事件の犯人は余人にとって全く理解不能であり、真の意味ですこぶる個性的である。しかし通常、こういう文脈で「個性」という単語は出てこない。いかにこの言葉が恣意的に使われているかがわかる。