- 「読み」とはテキストから飛翔する試み

2008/09/01/Mon.「読み」とはテキストから飛翔する試み

能動的な「読み」を要求するのが文学であると思う T です。こんばんは。

少し前に、「物語が自明の『構造』があらかじめ内在しているというのは幻想だ。そんなものはない」と書いた。もちろんこれは極論なのだが、どうも言葉足らずだったような気がするので書き足す。

テキストの中には、作者が意図して作り上げた構造がほぼ間違いなく存在する。それを探り当てることは読者の「読み」を大いに助けるだろう。けれども、その構造を探し当てることがすなわち読書である、というわけではない。あらかじめ用意された正解があると想定し、それをテキストから導き出そうとする行為は、俺から言わせれば単なる謎解きにしか過ぎず、創造的でも知的でもない。算数の宿題と同じである (無論、算数の宿題は大切だ!)。

物語は、読者がテキストを読むことによって展開される。読者それぞれの脳裏に現出した物語において、「テキストの中に」「作者が意図して作り上げた構造」がどう関係するかは——もちろん大いに関係するはずではあるがしかし——、別問題である。読者は皆、自らの内に描いたユニークな物語に独特の構造を、また別途に見出すだろう。それは他の読者には見えないかもしれない。だがそれが良い。それが「感想」なのだ。

あるいはもっと進んで、意識的な「読み」により、テキストとは関連性の希薄な構造を浮かび上がらせることも可能である (パロディなど)。逆に、自分が抽出した構造をテキストと密着させることで、説得力のある評論を書くこともできるだろう。誰もがテキストを勝手に読んで、勝手なことを言っているのだ。大した話ではない。

……ということを書きたかったのだが、どうも肩に力が入っていたようである。いかんなァ。

さて、ここから色んな話題に分岐できる。

歴史や科学も物語であるというのは?

テキストに対して fact を想定すれば良い。Fact は真実ではない。観測限界の内側で認識された事実である。その限られた材料から、我々は史実や法則を「読み」出す。観測限界が拡大されて fact の質が変わると、以前の定説やモデルが棄却されることもある。異説や論争というのも、要するに「読み」の違いである。話者の頭の中には、また別の物語が展開されているのだろう。

俺が特に肝心だと思うのは、科学における法則は文学におけるテキストではない、ということである。あれは仮説という名の物語なのだ。教科書に書いてあるから、ついつい勘違いしてしまいがちなんだよな。

探偵小説における「構造」と「読み」

探偵小説における「読み」の第一義は、「テキストの中に」「作者が意図して作り上げた構造」を探り当てることである。恣意的に読んではいけない (とされる)。これは他の文芸には見られない特徴だ。

坂口安吾『不連続殺人事件』の愉快なエピソードを挙げよう。『不連続殺人事件』は、犯人宛て懸賞小説として執筆され、これに対して 4人の読者が完全なる答案を提出した。まずはそのことに対する安吾の弁。

私は思うに、巨勢博士の推理と全く同じように一々の細部にピタリと推理された方が四人もあったということは、私がむしろ誇ってよいことではないかと思う。つまり、ピタリと当たるように出来ているのだ。

(坂口安吾『不連続殺人事件』、傍線 T)

このような探偵小説に対して、読者が自由な読みを展開するとどうなるか。

最も答案の名作は森川信一座の俳優木田三千夫氏からのもので、これはまさに前代未聞の発想法により、現代推理小説のかつて思い及ばざる着眼点から、作者の向っ脛をカッ払って出てきたもので、

ひとつ、下枝は歌川家に召使わるること、という条より始まり、つまり、下枝というヒナには稀れな美少女が歌川家へ召抱えられる事となり、多聞老人の腰元となって侍くうち、つれづれなるままに多聞の書架より古今東西の探偵小説をとりいだして読むうちに、持って生れたる殺人鬼の毒血はここにムラムラとよみがえり、夜となく昼となく血の惨劇を思いふけって、ここに不連続殺人事件の幻想を構成し、ついにこれを実行するに至るテンマツを、古風優美な物語にこしらえあげていられるのである。

(坂口安吾『不連続殺人事件』、傍線 T)

「まさに前代未聞」となるのである。それでは、木田氏の「読み」は間違いであったのだろうか? 彼の読書体験は、物語は、甘美なものではなかったのだろうか? これは結構重要な問いかもよ。

さて、まとめのようなことを書くならば、「読み」とはテキストから飛翔する試み、と言えるかもしれない。しかしあくまで、テキストをジャンプ台にしているという点がミソである。「読み」は糸の切れた凧ではない。

もしも逆に、読書がテキストに縛り付けられるものであるのならば、「今」「私が」「読む」必然性はもうそこにはなくなってしまう。辞書を全て読み通す必要がないのと一緒。

読み出した物語は貴方だけのものであって、だからこそ価値がある。でないと、物語について語っても虚しいよね、っていう。