- 判断あるいは評価するということ

2008/03/21/Fri.判断あるいは評価するということ

試行錯誤が系を最適化の方向へ導くのは何故だろうと不思議に思う T です。こんばんは。

よりメタに考えれば、試行錯誤というのも一つの「方法」にしか過ぎなくて、例えば「とにかく現状を保守しながら待ってみる」という選択肢もあり得る。

試行錯誤が最善ではないにしろ「良い」方法であるという判断は、どのような根拠から来るのだろう。また、試行錯誤した結果を検討して「良い」方向に漸進できるのは何故だろう。「良い」「悪い」の評価ができるのであれば、最初から最適な方法を選択できそうなものだが、それが難しいのはどうしてだろう。俺達は不完全にしろ枠組みを知覚している。そこから全貌を推測する、もっと優れた方法はないだろうか。

優秀な人間は、このあたりのステップをショートカットしているような気がする。

それから、俺達にとって時間が不可逆であるということ。

——ちょっと断片的に過ぎるな。

研究日記

若い人間で、テクニシャン S嬢と隣のバイト嬢の送別会。参加者はテクニシャン K嬢、研究員嬢、隣の研究員嬢、隣のバイト君。

2人の新しい生活に幸あれ。

Web 日記

ブックマーク (クリッピング) サービスを「お気に入りリスト」として使うか、あるいは「読んだページの履歴」として使うかは思案のしどころだ。今日は「履歴」を意識してブックマークしてみたが、何だか無駄な行為であるような感想を抱いた。それでは「お気に入り」としてはどうだろう。今度はクリップする・しないの線引きが難しくなる。点数で段階的な評価をするにしても、はてなブックマークでは rating ができない。しかしこれは、rate を示すタグを自作することで解決できる。

とはいえ、rating にしろ categorize にしろ tagging にしろ、必ず既存の線をまたがる灰色の存在が現れる。これをどうするかというのは、コンピュータ上の作業における永遠の課題だ。逆にいえば、この Gray Fox がいる限り人間の仕事はなくならない、ということでもある。

あらゆる線引きを必要としない思考は存在するだろうか? その答えは不明だが、少なくとも言語に依存した思考体系では無理な気がする。

宿題

「日記に愚痴は書くまい」とは何度も思った。が、「なぜ日記に愚痴を書いてはいけないのか」ということについては論理武装をしたことがない。「愚痴を書いた方が良いときもある」という反例が 1つでもあれば、この命題は否定される。恐らく反例は簡単に見付かるだろう。それでも書かない、というのであれば、それは倫理観や美学の問題となる。無論それでも構わないが、少なくとも自覚的ではあるべきだし、筋を通す必要もある。「とにかく〜なのだ」といって思考停止をするくらいなら、そもそも日記を書く意味がないわけだし。