- Buffering

2008/03/09/Sun.Buffering

MHP2 を再開したい衝動に襲われている T です。こんばんは。

研究日記

病院で実験。

今日も少し進展があった。嬉しい。

今も世界のどこかで小さな (あるいは巨大な!) 発見があったであろう、という妄想はいつも俺を励ましてくれる。人類って偉大だよなあ。そう思わずにはいられない。俺達の知見は大腸菌のコロニーのようにゾワゾワと増殖し続ける。頼もしい限りだ。

抽象的な話になるが、buffering や冗長性というものは、要するに「余裕」のことであろう。例えば、俺が死んだところで、その事実が社会に与える影響はゼロである。俺の死によって、ラボの仕事は支障を来すかもしれない、研究所の担当箇所には若干の迷惑がかかるかもしれない、しかし学会には何の損失もないだろう。なぜなら、世界には数多の研究施設があり、その中に沢山の研究室があり、そこで数多くの研究者が働いているからである。そういう余裕が社会にはある (今の日本からは失われつつあるが)。

自分は交換可能な歯車に過ぎないのだ、といって嘆くメンタリティは俺にはない。俺達の自由を担保しているのは、まさにその交換可能性なのだ。「君のことなんてどうでも良い。だから好きにしたまえ」。かくも自由とは無惨で冷酷である。それとも、「君が居てくれないと困るのだ」——そう言われて縛り付けられることを望むのか。無論、それはそれで素敵なことである。

話が逸れた。一所懸命に働いているアリは、働きアリ全体の 20% ほどであるという。これは一種の buffering に他ならない。全員が全員、しゃかりきになって働かなければ立ち行かないという社会には余裕がない。僅かな損害で一気に崩壊する恐れがある。

Buffer の量が大きければ大きいほど、系の安定性は増す。しかし buffering にはコストもかかる。また、安定性が高いということは、反応性が低いという意味でもある。

段々と意味不明になってきたので止める。とまれ、「自分はこの世界において何者かであらねばならぬ」という使命感と、「自分はこの世界において何者でもない」という安心感は、奇妙な形で俺の内に共存する。それは、意図的な視野の混同による欺瞞ではないのか。そういう危惧を覚えないでもないが、今は気にしないことにする。