- Diary 2008/01

2008/01/31/Thu.

たまにはこういう日記も良いだろう、と開き直った T です。こんばんは。

タイトルはヘルマン・ヘッセの言葉。

現在 3時。どうも眠れないので、恥ずかしげもなく長々と書く。

昨日の朝、突然ボスに呼び出された。研究会の打ち合わせかと思ったら、唐突に「大学院を出てからどうすんの?」と訊かれた。いや、まだ修了するまで丸三年あるんだけど。ぶっちゃけ考えてねえし。これはアレか。来年度から研究費も減るしオマエ辞めてくんない?っていう遠回しの肩叩きか。アンタらは医者だから研究を降りても喰えるけど、俺の経歴って全く潰しが効かないんだよね。わかんないかもしれないけど、そこんとこよろしく。

——と、本気で思ったわけではないが、そういうことがチラッと頭を掠めるくらいには、私はスレている。断っておくが、別に私は、研究者を取り巻く境遇に憤慨しているわけでも悲嘆に暮れているわけでもない。こんなことは就職する前からわかっていたし覚悟もしていた。仕事なんか独力で探すものだと思っている。当たり前の話だ。私にとっては。

個人的な話になるが、私の両親はともに文系で、父は家業を継ぎ、母は望んで専業主婦になったから、2人とも研究のことはサッパリわからないし、そもそも一般的な就職活動すらしたことがない。なかなか仕事が決まらず、いたずらに長引く就職活動の最中も、私は彼らから助言を頂戴したことはないし、また私から相談したこともない。これも別に嘆いているわけではなくて、単にそういうものだと認識している。ただ、私が孤独であったことは事実だ。ああ、だからその孤独も苦しみなどではなくて、あくまで私にとって普通の状態として受け入れている。っていうことを書きたいのだが、どうも表現が愚痴っぽくなるな。重ねて書くが、これは愚痴ではない。諦観でもない。

さて、将来について「ぶっちゃけ考えてねえし」と書いたが、正確には「今はあんまり考えていない」である。少し以前の俺は、自分でも信じられないくらい功利的に仕事と進路を考えていた。1年半ほど前には結婚を考えていたので、家庭を作るなら金がいるよなあ、金を得るにはある程度のポジションに就かなきゃなあ、それには学位がいるなあ、ということで (無論それだけではないんだけど) 大学院へ進むことに決めた。色んな人に相談して、物凄く悩んで、でも結果的に、給料を貰いながら学生を兼業するという形にして頂いた。望外の幸運だったが、結構大変だったんだぜ。イヤなこともあった。

「ある程度のポジション」といっても、アカデミズムの会場にそれほど席はないわけで、企業の方が勝ち目がありそうに観察された。ES 細胞の実験をしていた俺は、「これは使えるよなあ」と思ったものである。現在、私企業がヒト ES 細胞を扱うことは非常に難しいが、何やら規制緩和の動きもある。これはいずれ俺の知識と技術が火を噴くぜ! などと思いながら毎日実験していたものだ。ES 細胞ってのは、毎日培養液を交換してやらないといけない (マウス ES 細胞はそうでもないけどね)。付き合っていた女の子とは遠距離だったし、どうせ会えないのだからと土日も ES 細胞を顕微鏡で眺めていた。ここで培った俺の眼力がいずれ火を (略)。一方、元来メンタルの弱かった彼女は寂しくて寂しくて仕方なくなって、大学院の入学式の前日に僕を捨ててしまった。可哀想なことをしたなあ、とは今になって思うことで、当時の僕はプリプリと怒っていた。

俺「何のために休日も働いて、大学院にも行くと思っとるねん」
女「自分のためでしょ」
俺「正解」

言い訳はするまい。これだよ、この孤独。

手段が目的をブッ潰すことで始まった今年度、僕は自分が作り出した多忙に、しかしもはや何の理由も見出せぬまま飲み込まれ続け、そして——カーズのように——考えるのを止めた。長くなったが、これが「ぶっちゃけ考えてねえし」の含意である。もちろん、考えていないのは将来のことであって、日々の仕事にヤル気がないわけでは決してない。論文も頑張ったし。まだ accept されてないけど。

時間を昨日に戻すと、ボスに「大学院を出てからどうすんの?」と訊かれて僕の脳裏を走ったのは、ダラダラと上に書いたようなことだった。いやあ、と私は呟いた。「研究、続けるんか?」。はあ。「まァ大学院に行くくらいやからな」。いやだからそれは。言えるかボケ。「大学院はあと何年や?」「残り 3年です」。あと 1年くらいだったら、今クビになっても何とかやっていけるんだけどね。

続く。

2008/01/30/Wed.

徳永英明『夢を信じて』が好きな T です。こんばんは。

アニメ『ドラゴンクエスト』のエンディング・テーマでもあったんだよね。

ボス主催の研究会で 15分ほど話をしてきた。思えば日本語で発表するのは随分と久し振りである。最近では、国内の学会でも英語が公用語として採用されつつある。研究会終了後、懇親会に出席。日付が変わる前に帰宅。

今日は研究会以外にも色々とあって、長い 1日だった。書きたいことはたくさんあるが、そのどれもが長文を要するような内容なので、暇をみてボチボチ書いていきたいと思う。忘れないために、テーマだけをメモしておく。

明日、明後日は、論文の resubmission と、ひょっとしたら申請書の作業も加わって、忙しくなるやもしれん。DMC4 も発売されるしね。来週あたりから書こうかな、と思っている。

2008/01/29/Tue.

食べなかったら出ないだろうと考えて絶食してみた T です。こんばんは。

本日もシモの話で申し訳ないが、いまだに下痢が続いている。便意で覚醒するのは、あまり良い気分ではない。排便を済ませ、コーヒーを飲みながら (飲むなよ) 朝の支度を始めたが、どうも腹部の調子が落ち着かない。このまま出勤すれば、電車の中で必ずウンコを漏らすだろうという確信を得るに至り、職場に連絡することにした。

俺「先日より崩壊したる腹の調子を復する能わず、強いて参上仕れば電車内にてウンコを漏らすは必定。我、職場の名誉に クソ 恥を塗ることを恐る。故に本日は自重させて頂くがお許し願いたい」

テクニシャン嬢「これぞまさしくクソワロタww」

明日はボス主催の小さな研究会で発表することになっている。プレゼンテーションの途中でウンコを漏らさないか心配だ。「以下の条件で ES 細胞を培養し」ブリブリブリ「たところ、次のような結果が得ら」ブリブリブリ「れました」。シュール過ぎる。

今日のニコニコ動画

「ドラゴンクエスト III」(DQ3) が大好きな俺の眼から涙がこぼれた。

MIDI スゴいね。他の曲も沢山あるので検索してみよう! 感動したものを幾つか挙げておく。

2008/01/28/Mon.

ビオフェルミン止瀉薬の CM って関西だけだったかな、と不安になった T です。こんばんは。

体調はまずまず。コンビニの鍋焼きうどんも完食できるようになった。買い占めた分がなくなる頃には完調に復したいものだ。

研究日記

週末にボスへ送った論文が修正されて返ってきたので、最終的なチェックをして再びボスに返送。この後、業者に校正を依頼してから resubmission の予定。

ところで、数日前の日記に「考えたことを文章に落とすのと、文章をもって考えることとは、似ているようで全く別の行為だ」と書いたが、これは伝達と表現の問題と言い換えても良い。無論、前者が伝達で後者が表現である。

伝達は受け手に非依存であるべきだ。解釈が一意的であるほど「良い伝達」であるといえる。一方、表現は受け手によってその内容が微妙に、時として劇的に変化する。発信者がそのことを期待しているフシもあるし、受信者が積極的に「誤読」をする場合もある。また、そのような余地を持たせることこそが表現である、ともいえる。

表現できる力を持ち、なおかつそれを抑制できるようにもならないといけないんだなあ。みつを。というのは冗談だが、「表現の抑制」は重要なテーマだ。俺がみつを系の表現が嫌いなのは、その表現の過剰さゆえである。「オレ表現してるでしょ?」という表現が肌に合わないんだよね。

ゲームとスポーツ

「ゲーム (主にアクション・ゲーム) とスポーツは厳密にどう違うの」という話をした。その後で、バッティング・センターでボールを打つのはゲームなのかスポーツなのか、という例題を考えてますますわからなくなってきた。

意外とグレー・ゾーンは幅広いのかもしれない。

今日のニコニコ動画

ニコニコ動画の時報は本当にイラッとくる。金を払っているプレミアム会員なんだから、時報くらいカットさせろ、といつも思う。……が、やはりイライラするのは良くないですね。

2時の時報には「そろそろ寝るか……」と思わせる効用もあるし。

ところで、ニコニコ動画がなければ初音ミクはここまで流行らなかっただろう、という推測は恐らく当たっている。両者の関係性は、どこまでが偶然で、どこまでが作為的なものなんだろう。例えば、ニコニコ動画のイメージ・カラー (?) (リンクの色とか、パネルのハイライト色であるスカイ・ブルー) と、ミクのシンボル・カラーってほとんど一緒だよね。ニコニコ動画のバージョン履歴と、初音ミクの開発・販売歴を対照させて調べてないからよくわからないんだけど、これって偶然なんだろうか?

2008/01/27/Sun.

よく寝た T です。こんばんは。

安眠・快眠・永眠は「眠」、熟睡・爆睡・昏睡は「睡」の字を使う。この違いは? 他に「寝」という文字もありますね。

さて、風邪のときに食べるものといえば、やはりコンビニの鍋焼きうどんにトドメを刺す。のだが、今日は半分ほど食べたところで吐いてしまった。下痢も続いているし、胃腸がやられているんだろうか。これまで、熱が出ても食欲だけは滅多に落ちなかったし、ましてや嘔吐することなんて絶無だったのだが。僕はどちらかというと呼吸器系が弱くて、病気になると鼻や咽喉がやられることが多い。

そういえばボスは胃腸が弱くて、激務が重なった後など、体調を崩すときは必ず胃腸がやられる。そのくせに肉や脂が好んで食べるんだよなあ。独り暮らしだから生活も無茶苦茶だし、せめて休みくらいはしっかり取れよと思うのだが……、よく考えれば俺と似たようなものだな。こういう人間に「休んだら?」と諭したところで答えは見えている。

一方で、僕達のような仕事バカは、この種の忠告を有り難く受け止めて検討しなければなあ、というふうにも思う。というか、思えるようになってきた (「検討する」に留まるあたり、救いようのなさがあるのだが)。

——などと、どうも近頃は感傷的な話が多いな。くだらん。いや、そもそもこれを「くだらん」と思ってしまうことが、ひょっとしたらダメなのか。などと惑っておるわ。バカか。

Web 日記

少しサイトの内部処理をイジる。人間への見た目はそのままで、ブラウザに対する見た目、つまりソースを認識させるのかさせないのかを、簡潔な記述で済ませられるような関数を組んだ。これまでは結構いい加減だったんだよね。

割と以前から、ソースには気を遣っているつもりだ。できるだけシンプルに書いているから、検索エンジンの受けは良い。例えば、3日前に書いた森博嗣『悠悠おもちゃライフ』の短い書評のページは、今日現在、Google で「悠悠おもちゃライフ」を検索すると 7位に表示される。よほど有名な本でなければ、タイトルで検索した場合、僕の書評ページは大抵 20位以内に現れる。Web の片隅でヒッソリ運営しているサイトにしては、なかなかじゃないだろうか。実際、検索エンジンから書評のページに飛んでくる人が (割合としては) かなり多い。まァ、飛んできたところで大したことは書いてないんだけどね。何となく申し訳なく思う。

別に SEO (search engine optimization) に興味があるわけではなくて、自己満足的に最適化した結果だけだから、どうしようってのもないんだけど。

2008/01/26/Sat.

風邪に罹ったっぽい T です。こんばんは。

やたらと寒いし、頭が痛い。そして尾篭な話で恐縮だが、下痢がヒドい。今年度は文字通り本当にクソッタレな 1年で、やたらと頭に血が昇っていたが、これってやっぱり良くないんだろうなあ。精神修養をせねば。

昨日は、ようやく論文を修正し終えてボスに提出した。今月中に校正して resubmission する予定。締め切りは 2月の第2週だが、ボスの出張と重なっているので前倒しになった。とにかく、やることはやった (つもり)。

来年度は人員が減り、研究費も今年度以前ほどは確保できない見通し。「4月からはこれまでのデータをかき集めて、地味な雑誌でも良いから論文を稼ぐか」などとボスは言っている。私も少しはゆっくりできるのかもしれない。もちろん論文を書くのは大変なんだけれども、時間の融通が利くという点で、実験よりは遥かにラクだ。それを強く望んでいるのか、と問われれば微妙だけれど。論文の方が楽、でも実験の方が楽しい。

仕事に匹敵する楽しいことを他に見付けないとなあ、というふうにも思う。学生の頃はバイクを乗り回し、小説もよく読んでいた。今でも本は読むけれど、「ふーん」で終わることが多い。余裕がなかったんだよなあ、とは今になって思うことであるが……、やはり頭が痛い。寝るか。

2008/01/25/Fri.

博打はやらない T です。こんばんは。

最近、カイジが元気ですね。何となく Wikipedia でカイジを調べたら、次のような記述を見付けて爆笑した。

漫画以外のメディアにも進出し、エスポワールでの限定ジャンケンを再現したプレイステーションソフト『賭博黙示録カイジ』(講談社) が 2000年 5月 25日に発売された。なお、このゲームは原作の「人生にやり直しなどない」「勝負に後戻りはない」というテーマ性をそのままリアルに引き継いだために、「リセット」という操作を行うと強制労働 (という名のミニゲーム) を受けさせられ、断った場合はセーブデータを抹消されるというハードな設定となっている。

(賭博黙示録カイジ - Wikipedia、傍線 T)

ざわ……。Wizardry のロストどころじゃねえぞ!

2008/01/24/Thu.

どうして Amazon の書籍の写真は、帯の有無や画像のサイズがバラバラなんだろう、といつも思っている T です。こんばんは。

シリーズもので、その中の 1冊だけ画像がなかったりもする。現物を手作業でスキャンしているんだろうか。出版社はカバーのデータを Amazon に送っていないんだろうか。何故?

この種の事情を考えるたびに、ネットだのデジタルだのはまだまだ道半ばであるなあ、と思う。毎朝、何千万部もの新聞が、紙に印字されるという形で流通している。気が遠くなりそうだ。これらはもう、技術的な問題というよりは、人間の意識や習慣レベルの問題だろう。俺達の世代が管理職、取締役になるまでは、意外にダラダラと現在の光景が続くのかもしれない。そういう意味で、ホリエモンは早過ぎたともいえる。

最近、ニコニコ動画の登録者が 500万人を突破したらしい。この数字をどう評価するか。まだ 500万人か。そう私は思う。ちなみに、ニコニコ動画が消費するトラフィック量は、日本全体のそれの 1/10 を占めるらしい。たった 500万人が、アナログ放送にも劣る動画を見ただけで、日本の通信の 1/10 を消費してしまう。コンピュータの処理能力も、ネットの帯域も、何て貧弱なんだろう。足りない。まだまだ全然足りない。

先日の日記で、PS3 + PSP のことを「まさに夢のような進歩である」と讃えた。そうなんだよ。技術は凄い勢いで進化しているんだよ。原理的には、今すぐ SF 映画のような生活ができるんだよ。でも、インフラストラクチャもハードウェアのパワーも全く不足している。望み通りの力を得るためには莫大な金銭が要る。望み通りの結果を得るためには膨大な時間がかかる。イライラする。

そんなに急いでどうするの、と問われそうだ。違うんだ。時間をかけることそれ自体が楽しみであるような事柄は、確実に存在する。そのための時間を確保するには、他の事柄がもっと効率的にならなければならないんだ。しかもそれは、原理的技術的に可能なんだ。諸々の事情が足を引っ張っているから我慢できないんだ。無駄な道路を作るくらいなら、有用な回線を引っ張るべきなんだ。

あと、スロー・ライフがあって、どうしてファスト・ライフがないんだ。俺は死ぬまでにできるだけ沢山の物事に触れたいと思うよ。スロー・ライフで見えてくるものは確かにあると思うが、それはファスト・ライフでも同じだろう。僕は長距離走者だったから、ランナーズ・ハイの感覚を知っている。あれは、走り続けなければ得られないものだ。速く走れる人間はゆっくりと歩むこともできるが、脚力を鍛えていない者がハイ・スピードで走ることは絶対にできないんだぜ。

2008/01/23/Wed.

ひとまず論文を書き上げた……と思ったけど、ボスに提出するのは明日にしようと考え直した T です。こんばんは。

日本最古のツンデレは葵の上。異論は認める。

研究日記

論文を書きながら、ハッと気付いたことを。

考えたことを文章に落とすのと、文章をもって考えることとは、似ているようで全く別の行為だ。正反対といっても良い。

「文章をもって考える」行為は、そのことによって得られる文章それ自体に価値がある場合、つまり小説を書くときなどには非常に有用であると思われる。私も、日記を書いているときは「文章をもって考える」ことが多いような気がする。

しかし、例えば論文を書くときに「文章をもって考える」のは極めて危ういんじゃないか。論文は、文章そのものに価値があるわけではない。論文の価値は、研究によって得られた事実や仮説に存在する。文章は、これらを伝達するための手段でしかない。こんな場合、文章で物事を考えてはいけない。自分の文章に思考を誘導されてはいけないんだ。

危うい危うい。

言葉遊び

言葉尻なんて幾らでも捕まえられるし、ひっくり返せるものである。

例えば「優しさ」というのは抽象的な概念であり、そういうモノが確固としてあるわけではない。「優しい人」なんて存在しないんだよね。その人から優しさを感じている自分がいるだけ。なんて書くと冷笑的に思われるかもしれないが、これを能動的な行動と解釈できるなら、意外に応用が利く。

「感じる」という単語は自動詞でもあり他動詞でもある。行使するのか受け止めるのかは自分次第だ。

2008/01/22/Tue.

眼輪筋がピグピグ
元ネタは荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第4部「ダイヤモンドは砕けない」に登場する山岸由花子。「左まぶたが痙攣してきたわ……由花子って子供の頃から興奮すると『眼輪筋』がピグピグいってちょっと暴力的な気分になるのよね」

眼輪筋がピグピグしている T です。こんばんは。

やや寝不足。興奮しているわけではない。ちなみに左まぶたではなく、右まぶた。

昨日の日記で「初代ゲームボーイで (中略) 白黒のテトリスを遊んでいたんだ」と書いたが、これは厳密には誤り。ゲームボーイは確か 4階調のグレースケールだったはずだ。どちらにせよ非力には違いない。アスキーの Wizardry シリーズでは、末弥純のデザインによるモンスターが見事に再現されていたが、今思えばスゴい話だ。当時のドット絵の凄まじさが、3D 全盛の現在になって理解できるという逆説。

今日のニコニコ動画

二刀流というのは現実に存在するんだな。

2008/01/21/Mon.

今日も実験で良い結果が出た T です。こんばんは。

ゲーム日記

最近、ゲームの話が多いけれど。以下で「ゲーム」と書くのは、いわゆるテレビ・ゲーム、ビデオ・ゲームのことである。

PS3 のゲームはもうどうでも良いやっていう部分もあるんだけど、PSP がやたらと神ハードなので、その母艦としてはバリバリ使っている。PSP を持ち込んだ布団の中で、PS3 でダウンロード購入した PS1 のゲームをリモート・プレイしつつ、ネットをウロウロしながら、ビデオを観たり音楽を聴いたり。PS3 が高価か否かは議論の別れるところだが、PS3 + PSP のシステム一式で 6〜7万という具合に考えれば、これは Dell の一番安いノートパソコンと同程度である。そのくらいの価値は、ゲームをする人間には充分あるんじゃないか。大人のオモチャと考えれば妥当な価格だろう (原価を考えれば破格といっても良いくらいだ)。PS3 のアップコンバータ機能は優秀だから エロビデオ DVD も大画面で綺麗に映るし、後継の Blu-ray もどうやら普及しそうな感じだ。あとは PS3 で PSP のゲームができれば完璧なんだけどなあ (逆はできる)。

ファミコンとゲームボーイで育った僕なんかは、素直に PS3 と PSP を「スゲー」と思ってしまう。無線 LAN 経由でシステムをアップグレードしたら、ハードウェアの機能が向上するんだぜ? 20年前、僕達はそんな事態を想像することすらできず、クソ重たい初代ゲームボーイで二の腕を痛めながら白黒のテトリスを遊んでいたんだ。まさに夢のような進歩である。この感動がある限り、僕達の世代が技術の進歩に取り残されることはないだろう。ジジイになっても、多分ゲームをしているんじゃないかな。

「いつゲームを卒業するの?」と僕達は尋ね続けられてきた。これって愚問だよね。例えば、将棋を卒業するとか、油絵を卒業するとかっていう概念はない。僕達より上の世代は「いつ漫画を卒業するの?」と言われてきたらしい。でも、今ではそんな問い掛けを耳にすることは少なくなった。

全然関係ないけど、ゲーム (主にアクション・ゲーム) とスポーツは厳密にどう違うの、と考えたことがある。決められたルールの下で、目や耳などで状況を判断し、適切に自分の肉体を反応させ、勝敗あるいは記録を競う。ゲームとスポーツには何か決定的な相違点はあるだろうか。結構考えたつもりだが、いまだに発見できていない。どちらにも対人競技があり、チーム・プレイもある。野球でもサッカーでも道具を使うわけだし、単にそれがゲーム機とコントローラになっただけじゃないの、という気がしてならない。まァ、そのことをもってゲームを擁護しようとかいうつもりはないのだが。

またまた話は変わるが、PSP で FFVII がリメイクされるとかされないとかいう噂がある。あのスノーボードのミニ・ゲームだけでもリリースしてくれないかなあ、と思う。あれにハマったのは僕だけではないはずだ。

今日のニコニコ動画

今日もベジータで。

2008/01/20/Sun.

今年は動画の 1つでも作ろうかと思っている T です。こんばんは。

今日、追加実験でようやく結果が出て、何とか論文を revise できる目処が立った。

気が向いたので久し振りに部屋の掃除をしてみた。といっても、クイックル・ワイパーをかけただけなんだけど。コイツの一般名称は何ていうのだろうか。

ゲーム日記

PSP のゲーム・プレイを録画しようとして罠に嵌まった。PSP の映像は、D端子あるいはコンポジット端子で外部機器に出力できるが、実はゲームに限っては D端子でしか出力できない (ゲームはプログレッシブ映像で開発されているため)。で、私が所持するレコーダへの入力はコンポジット端子でしかできない。要するに、PSP のゲーム画面をレコーダに送れないのである。テレビ経由でもダメ。詰んだ。

PSP に CFW (custom firmware) を導入してパソコンでキャプチャーする、という技もないではない。が、CFW は非公式な存在であるし、PSP がブッ壊れる危険もある。そこまでして録画したいかというと、はなはだ微妙である。でも、ちょっと諦めきれない部分もある。最近は PSP で懐かしの PS1 のゲームが遊べたりするのでなおさら。

さて、PS3 はコンポジット出力できるので、PS3 (あるいは PS3 で起動した PS2 および PS1) のゲーム映像を録画することはできる。とはいっても、PS3 のゲームは高解像度を前提として開発されているので、コンポジット出力すると目も当てられない状況になる (特に文字が読めない)。

PS2 あるいは PS1 のゲームであれば問題ないだろうが、今は手元に適当なソフトがない。いずれ挑戦してみようとは思っている。こういうのはクソゲーでやると面白いので、オススメあるいはリクエストのソフトがあれば御教示願いたい。

動画日記

で、先日から動画投稿についてもチョコチョコと調べている。以下は Mac でニコニコ動画に投稿するためのメモである。

ニコニコ動画や YouTube の動画は FLV (Flash video; .flv) という形式で配信されている。Mac の汎用プレイヤーで FLV ファイルを視聴するには Perian というプラグインをインストールすれば良い。

システム環境設定の一項目としてインストールされる。特に設定の必要はない。これで FLV ファイルを QuickTime Player などで視聴することができる。

次に FLV ファイルの作成だが、大別して 2つの方法がある。1つは、FLV でのエンコードを可能にするコンポーネントを導入する。もう 1つは、エンコードを FLV 形式に変換可能なコンバータ・ソフトを使う。前者の場合、iMovie HD などから直接 FLV ファイルを出力できるようになる。自前で動画を作成するならばこちらの方が簡単だ。後者の場合、一度 QuickTime などで書き出し → FLV に変換、という手順が必要になる。しかし、多量の動画を FLV に一発で変換できるなどといったこともできる (そのためのコンバータなのだが)。

どちらの方法も、以下の動画で詳しく解説されている。

上記の動画を参考に、今回は、VisualHub というコンバータでの FLV エンコーディングを試みた。

iMovie HD で iSight から適当に録画 → QuickTime 形式で書き出し → VisualHub で FLV にエンコーディング。エンコードの条件は上記動画、および下記サイトを参考にした。

試験的に投稿してみたが、神画質とまでは行かないものの、なかなかの高画質を達成することができた (自分を被写体にしてのテストなので非公開)。意外に簡単だったが、それも先人達が積み上げたドキュメントがあってのこと。系が完成したら、私もまとめを書くことにしようか。

2008/01/19/Sat.

無駄に長い日記を書いてみた T です。こんばんは。

つまらないことばかり考えている。「おトイレ」はあっても「おキッチン」はない、という話を以前に書いた。食物関係だとどうだろう。

お米、お野菜、お肉、お魚、お刺身、お造り、お漬物、お大根、お芋、お塩、お砂糖、お醤油、お味噌、お茶、お菓子、お饅頭、お煎餅、お饂飩、お蕎麦、お素麺、お味噌汁、おソース、お粥、お雑炊、お汁、お汁粉、お総菜、お豆腐、お葱、おつまみ、お煙草、お酒、おビール、お豆、お餅などなど、思い付くままに挙げていけばキリがない。

目を惹くのは「おビール」だろうか。おワイン、おウイスキー、おウォッカ、おブランデーとはいわない。何故だろう。同じ日本語でも「お大根」がある一方で、お白菜、お牛蒡、お小松菜、お玉葱とはいわない。単に発音がし難いからか。謎である。

食器だとどうか。お皿、お椀、お箸、お湯飲み、お猪口、お鍋、おグラス、などなど。しゃもじは「お」を付けると「おしゃも」に変化する。逆に、「お玉」から「お」を取ったらどうなるのかがわからない。御存知の方がいらっしゃったら御教示願いたい。

ここでも「おグラス」がある。おコップ、おスプーン、おフォーク、おナイフとはいわない……と思う。書き並べたら自分の感覚が変になってきたので、いささか自信がない。

天文には「お〜さま」という組み合わせもある。お日さま、お天道さま、お月さま、お星さま。しかし単体で「お月」という使い方はあまりしない。不思議である。

「お洋服」とはいっても「お和服」とはいわない。しかし「お着物」とはいう。お帽子、お靴、お上着、お眼鏡など、比較的頻繁に脱着するものには「お」が付く。これは理由がわかりやすい。お鞄、お荷物も同じことだろう。

和洋中。食事の「中華料理」は和食洋食に並ぶ存在だが、洋服、洋楽、洋画に対する中華は存在しない。中華料理恐るべし。確かに中国の食事は旨い。

お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、お爺さん、お婆さんと、年上の人間には「お」を付ける。しかし「お伯父さん」とはいわない。これも発音し難いからだろうか。確かに「お大伯父さん」などと言えたものではない。他人の家族に対しては、お坊ちゃん、お嬢さん、お子さん、お孫さんと、年下の人間にも「お」を付ける。だがやはり「お曾孫 (ひまご) さん」「お玄孫 (やしゃご) さん」とはいわない。これは使用頻度があまりにも低過ぎるからだと思われる。お弟さん、お妹さんといわないのは、やはり発音が問題か。考えれば考えるほどいい加減である。

お寺さん、お坊さんとはいっても、お神社さん、お神主さん、お教会さん、お牧師さん、お神父さんとはいわない。徳川幕府の影響だろうか。

「おデブちゃん」というのは、噛めば噛むほど味のある言葉である。この言い回しを考えた奴は相当に腹の黒い人間だと思われる……というのは穿ち過ぎか。ほんの半世紀前まで、世界のどこでも、太っていることは健康と裕福の象徴だった。逆に、おガリガリちゃんとはいわない。また、おチビちゃんとはいっても、おノッポちゃんとはいわない。おすましさん、おしゃまさんはあっても、おひねくれさん、おふてくされさんはない。いったい何なのだ。

馬鹿馬鹿しくなってきたので、このへんでやめる。

今日のニコニコ動画

懐かし過ぎて涙が出た。

もう 1つ。Monster Hunter なんだけど、それは関係なくて、曲の詳細が知りたい。何だコレ。

2008/01/16/Wed.

この 1ヶ月の生活費は学生時代並だった T です。こんばんは。

ほとんど食費だけ。

コンビニで弁当を買うと、体感 5割くらいの確率で「暖められますか?」という珍妙な日本語を耳にする。そのことを云々するつもりはない。この奇妙な言語は「店員である私は客である貴方に丁寧な言葉を使っていますよ」という記号なのであり、つまるところ、コンビニエンス・ストアという効率重視の場における符牒のようなものだと理解している。

日本語はいつも効率を求める。発音がしやすいからという理由だけで、「新しい」の読みが「あらたしい」から「あたらしい」に変化する。あるいは「牛耳を執る」という故事成語が「牛耳る」と短くなって、新聞に載り電波で放送され辞書に採用される。恐らくこれらの乱れた (!) 変化も、最初は口やかましく指摘されたことだろう。けれども今は原形を知る人も少ない。そう遠くない将来、多くの人が一般的な会話で使う「事故る」なんかも同じ道を歩むんじゃないかと私は予想する。言語の進化はいつも民主的だ。

最も基本的な日本語である「こんにちは」「こんばんは」という挨拶も、「今日は〜ですね」「今晩は〜ですね」の主語を言い放っただけに過ぎず、真面目に考えると意味不明瞭である。「ご機嫌よう」などもそうだな。ちなみに「もしもし」の語源は「申し上げる、申し上げる」だといわれている。

話は少し変わるが、「暖められますか?」など、特定の時と場で使われる変形語はジャーゴン、つまり隠語の一種だと考えられないこともない。ジャーゴン (jargon) は元々「専門語」の意であるが、専門語を「専門語」と書かず、わざわざ「ジャーゴン」と記すあたりに、ジャーゴンが持つ秘教的でメタな性質がある。このことは以前から考えていたので、良い機会だから書いておく。

何らかの理由で、正式には「A」と表されるべき言葉を、別の形「B」に置き換えて用いる。このとき、B は隠語と呼ばれるわけだ。B が誕生した瞬間、意味レベルにおいては A ≡ B である。しかしその内、「A と表すべきところを意図的に B と表している」という運用状況そのものが、付加的な意味を B に与える。「隠語である B」「B で通じる俺達」「B を知らない人、B を知っている私」などという権威主義、連帯意識、優越感が隠語の行使者に生じる。そこから A と B の使い分け、すなわち A ⊂ B という現象が出来する。そして一部の B は最終的に、「A とは少し異なったニュアンスを持つ新語」に昇華されるだろう (そうならない場合は廃れて死語になる)。こうして語彙というものは増えていく——、少なくとも語彙の増え方の一つではあるだろう。以上がジャーゴンについて私が思うことである。

現代日本における隠語の典型例は、いわゆる「2ちゃん語」だろうか。例えば「ワロス」は「笑った」とは明らかに別の状況を指示している。個人的に素晴らしいことだと思う。表現できる現象の襞がより細かくなるのだから (まァ「ワロス」は死語になるだろうが)。その反面、全ての人が理解できるわけではないという、隠語が隠語であるが故の欠点もある。私が日記で隠語略語新語死語を可能な限り使わないようにしているのはそのためだ。たまに使いたくなるんだけどね。

2008/01/12/Sat.

大学のラボに関して「タコ壺」という批判が存在するが、9つのタコ壺があるからこそ 1つの壷中天もまた存在すると思う T です。こんばんは。

日本の大学が今のシステムのままタコ壺だけを認めなくなったら、もう大学という研究機関には何の希望も未来もないのではないかとすら思えてくる。改革すべき箇所って、現在議論されている点とは少し違うところにあると思うんだよね。

今朝は早い時間に目覚めたので、チョイチョイと書評を書いてから病院へ。軽く実験をして夕方には帰宅した。昼からは研究員嬢も来ていて、明日も実験をするとか言っていた。私は明日、明後日と大学で実験の予定。

こういうことを書くと、また「働き過ぎ」だとか何だとか思われそうだ。Blog 界隈でもその手の議論が相も変わらず続いている。最近、このことについて私の考えが少し変わってきたのでそのことを書いておく。

研究をしている人は基本的に好きでやっているのであって、実験がダルかったりすることはあっても、仕事自体がイヤでイヤで仕方がないという訳ではない (と思う)。一方で、生活の糧を稼ぐためだけに嫌々仕事に従事している人がいる (それを非難するつもりも否定するつもりも一切ないが)。で、端的にいえば、嫌なことを週40時間やるのと、好きなことを週80時間やるのとを、「労働時間」という数字だけで比較することに何の意味があるのか、というわけである。この種の議論に私は何の価値も見出せないし、特に意見もない。無論、この個人的な意見を他者に押し付けたいとも思わない。自分がするべきこと、したいことを行うだけである。

ゲーム日記

自分が何を接続して、どう設定したいのかがわからなくなってきたので、我が家のゲーム周辺環境を模式図にして整理してみた。

我が家のゲーム周辺環境

どう見ても立派なオタクです。本当にありがとうございました。……というのはウソで、今の私はオタク・マインドとは程遠い位置にいる。要するに、これだけの環境を用意しないとヤル気が出ないし、快感が得られなくなっているのだ。これのどこがオタクか。脳汁を出すためのコストは年々高騰している。もっと単純に没入したい。

そう考えると、書物はいまだに圧倒的なコスト・パフォーマンスを誇る。ワン・コインで充分な満足を獲得できるし、極端な話、ある程度の量の活字であれば何だって良い、という気分のときさえある。

話は戻るが、我が家のテレビは受信接続も設定もしていないので、テレビ番組を観ることはできない、というか観る気が全くない (それでも NHK の受信料は払っているが)。そんなテレビに何故レコーダが必要なのかというと、近い内にプレイ動画を録画して遊びたいなあ、と思っているからだ。ニコニコ動画にでもアップして、厨房どもから「ヘタクソ氏ね」などと煽られることを想像すると興奮する。是非一度やってみたい。

PS3 に関してだが、私はいわゆるハード議論には興味がない。PS3 は欲しかったから買っただけである。Wii が欲しくなれば買うだろうし、Xbox 360 が欲しくなればやはり購入するだろう。ハード論争は読むたびにウンザリする。愉しい時間を過ごすことのみがゲームの目的だと思うのだが。

PSP については、これをゲーム機としてのみ扱うのは勿体なさ過ぎると思う。ちょっとした知識とツールがあれば、相当な部分を自分でイジって遊べる。これもまた色々とチャレンジしたいことがあるので、気長に付き合っていきたいと考えている。

2008/01/11/Fri.

少し前の僕自身を眼前で見たような気になった T です。こんばんは。

といっても、それはあくまで僕の主観である。僕と他人は隔絶している。その自覚だけが僕と他者との距離を可能な限り縮めるだろう。理解したという誤解はスレ違って永遠の彼方へとねじれのベクトルを描く。結局は遠ざかってしまうんだよね。

鬱病について僕は何の知識もなく、その状態については想像するしかないのだけど、それすらほとんど不可能だし、そもそもそんな無責任なことはしたくもない。僕が唯一想像できるのは、その状態が発動する瞬間の変化だけだ。一度形成されたループ状の感情回路という仮想的な機構があって、何らかの刺激によってその回路が活性化される。スイッチが入った回路には延々と電流が流れ続ける。自分でコントロールはできない。そこから脱却するには、ただ何となく時が過ぎ去るのを待つしかない——。繰り返しになるが、あくまで僕の想像である。

活性化された回路を薬で鎮静することはできるだろう。でも、一度形成された回路を自由に消滅させたり改変したりすることは、少なくとも現在の技術では不可能である。トリガーが引かれればいつでも発射される。だから、根本的には完治しない。トラウマとか心的外傷後ストレス障害 (PTSD; post-traumatic stress disorder) とか、もっと一般的な気分の変化も、恐らく基本的には同じ現象なんだろうと思っているが、もちろんこれも僕の曖昧な知識と模糊とした想像によるものである。

脳は可塑的であるが、それが可逆的なものか不可逆的なものか (上書き保存なのか別名で保存なのか) は、定義にもよるのだろうけれど、わかっているようでよくわかっていない。あるいは情報の入力 → 出力という比喩はとてもわかりやすいのだけど、本当にそうなっているのか、という根源的な疑問もないではない。そういう捉え方で良いのか、と素人の僕は思ってしまうことがある。

答えのない悩みを悩むことに意味はあるのか、という問い掛けにもやはり回答あるいは意味がない。比較的はっきりしているのは、回路はその使用によって増強されるということだ。ある思考の回路がギンギンに強化されたときに見えてくるものがあるかもしれない。わからない、というのは、可能性はある、ということでもある。

2008/01/06/Sun.

まだまだな T です。こんばんは。

研究日記

起床して携帯電話を確認すると、昨夜 23時 15分という時間にボスから着信があったようで、ハテ何事かと不思議に思った。飲み会の誘いにしては遅過ぎるし、仕事のことであるのならば鬼畜過ぎる。どうしても連絡が取りたい緊急の用件なら、電話に出られなかった私が確認できるようにメールでも寄越してきそうなものだが、そういうわけでもない。

今日の仕事は午後から半日ほどの予定だったが、何かあっては困るので午前中に出張ることにした。一応休日であるから、10時を待ってボスに電話をしてみたが出やがらない。何だコノ野郎と思って昼飯を摂っているとボスから電話がかかってきた。論文のファイルを CD に焼いて大至急出版社に送らなければならないのだが、CD-RW の焼き方がわからないのでスマンが焼いてくれという、内容は重大だが作業は詰まらない用事であった。大した手間ではないから速攻でやっつけるとエラく感謝された。何だかなあ。と思ったが、新年だから少しポジティブに考えてみよう。

今回の件で重要なのは、私が CD を焼いたという具体的な作業ではなく、今日その時間、職場に私がいたという状況の方であろう。こういう仕事のあり方というのもある。当直なんかはその典型的な例である。小売店、飲食店、各種窓口も基本的に「客待ち」という受動的な仕事である。あるいは警察、消防、軍隊、医療というのも、有事に備えて「ある」というのが、まずは最大の仕事であろう。そう考えるとかなりの職業が基本的に passive であるといえなくもない (「その時」に備えて能動的に準備する必要はあるが)。

研究は 100% 能動的な仕事である。発見は決して向こうからやってこない。えてして待機は「無駄な時間」と思ってしまいがちである。それが普通だったから、他人には下らないかもしれないが、今日の再認識は私にとってなかなか新鮮であった。こういうことが 1日に 1つくらいあれば、随分と素敵な毎日になるのだがなあ。

2008/01/04/Fri.

「郵便」って素敵な日本語だと思う T です。こんばんは。

研究日記

仕事始め。といってもテクニシャン諸氏は年休を取っていて、ラボには私と研究員嬢のみ。細胞を起こして、事務仕事を少し。

隣のラボはバリバリに始動していた。来年度からはこのラボが幅を利かしそうな勢いがある。新しいバイト君も来ていたようだし (来年度からテクニシャンとして雇用されるらしい)。栄枯盛衰ではないが、ラボの規模や勢力にも波がある。私が今の職場に就いたときは、別のラボが肩で風を切っていた。留学された先生と私は、2人きりでエチブロを購入するところからラボを立ち上げ始めた。そのうちに我がラボも人員が増え、ここ 2年ほどは研究所で最も活動的だったように思う。よくぞここまで、などと私なんかは感慨深いものを覚えるのだが、当時の寒々しい研究室の状況を知る人間はもう私だけだ。

受け取る

早めに仕事を切り上げ、大学に寄って挨拶をしてきた。留学された先生からプラスミドのリクエストがあったので、郵便にて発送。たった 110円でアメリカまで届くんだな。郵便制度って普通にスゴいと思う。近代国家の証だなあ。文明バンザイ!

今年も年賀状の遅配問題が起こったようだが、頭を冷やして考えると、20億枚もの葉書をたったの 1日で全て間違わずに人力で届けるというのは誇大妄想的な発想のように思える。こういう「大動員・大事業」は前世紀でやり切ったでしょうに (その究極が戦争である)。そろそろこの種の仕事はコンピュータに任せるべきなんじゃないか (つまりメールに切り替えるとか)。人間がすることは他にある。

手書きの文字じゃないと心が伝わらないという人がいるが、逆にいえば、この人は手書きの文字からしか愛情を汲み取れない人間であるともいえる。これはとても貧しいことだ。活字になった文学からは何も感じないとでもいうのか? 違うでしょう。聖書は写本の方が尊いだなんていったら、クーベルタン男爵が泣くぞ。人間、そんなにバカじゃない。ディスプレイの文字からだって充分に感動は伝わる。伝わらない伝わらないと喚く前に、伝える努力、感じる努力をするべきじゃないのかな。

話は逸れるが、郵政民営化が問題になるのは郵便局が貯金やら保険やらを展開しているからであって、郵便制度に瑕瑾があるからではない。と感じている。たった 110円で封書を配達するような事業が黒字であるわけがない。だからこそ郵便事業は国営だったのだ。そのあたりの議論が曖昧ではなかったか。

ところで、他国の郵便局は金融に関わっているのだろうか。はなはだ疑問である。

2008/01/03/Thu.

T です。明けましておめでとうございます。

今年も shuraba.com ともども宜しくお願い致します。

禁煙日記

禁煙は続いています。まだ 3日目だけど。副流煙おいしいです。

今年の抱負

今日のニコニコ動画