- Not Just Anybody

2007/12/10/Mon.Not Just Anybody

最近は研究のこと以外で頭を悩ますことも少なくなった T です。こんばんは。

忘年会その1 ということで、先日 accept された論文の関係者が集って打ち上げ。いや目出度い。わはは。

解散後、隣の研究員嬢からメールが届いていることに気付く。とある実験をしたのだが解析に自信がないので見てほしいとのこと。最近、この種のメールを頻繁に頂戴する。冷酷にいえば、コラボレーションでもない限り、私が他の研究室の実験に手を貸すことには何のメリットもない。だからといって要請を断るのはダメだと自分を戒めているのは、留学された先生の仕事を僕が引き継いだときの途方に暮れた感覚が今でも鮮烈に残っているからだ。引き継ぎが甘かったというわけではない (これは自信を持って言える)。それでも、引き継がなければわからないもの、その立場に立ってみないとわからないことがあったということだ。直面する数々の問題に対してはもちろん自助努力で当たっていくわけだが、それでもどうにもならないときがある。

チラチラと垣間見たり噂に聞いたりする限り、隣の研究員嬢の立場は当時の僕と似ているように思える。

Help! I need somebody.

Help! Not just anybody.

Help! You know I need someone.

Help!

(The Beatles "Help!")

そんなときに助けてほしいのは「誰か (somebody)」であって、「誰でも良い (anybody)」わけじゃあない。自分で努力せずに安直に助けを求めるのは論外だけど、そうでない限り、呼びかけられた人間は振り向かなけりゃいけない。そして、呼びかけられるに価する人間はそのことを無意識下で知っている (ように観察される)。

どうでも良いが「You know I need someone」って、いかにも英語って感じの言い回しだよね。こういうのがパッと言えたら格好良いんだがなあ。

話を戻すと、自分でいうのも恥ずかしいのだが、もうそろそろ僕にもそういうことが求められるようになってきていると思うんだ。僕の絶対的な力量は関係なく、ある範囲内での関係性の中で自分がそういうポジションに位置するのなら、甘んじてその役割を引き受けるのが漢ってもんじゃないか。

人が育ってポジションにふさわしい人材になるということはほとんどないんですよ。現実はその逆で、「ポジションが人を育てている」というのが実態です。

(「努力すればスキルが向上して上に昇れる」というのは幻想 - 分裂勘違い君劇場)

「損な役回り」という発想そのものが「損」なのではないか。

などと青臭いことを考えている。考え過ぎかもしれない。だけど、僕を頼ってくる人が、当時の僕と同じくらいに困っている可能性があるのなら、やっぱり看過することはできない。僕が今の職場、今の立場で経験したことは (自分にとって) 結構大きなものだと思うんだ。

どう見ても青二才の戯言です。本当にありがとうございました。