- 俺と私は僕のもの

2007/11/28/Wed.俺と私は僕のもの

自炊して早寝早起きが続いている T です。こんばんは。

一昨日あたりから 1つの文を長くした上でかつ読みにくくならない程度に句読点を省いた文章を意図的に挿入しているが別にこの文体が昨日の日記で触れた「中毒性のある文章」だとは思っていない。個人的な趣味である。

日本語に句読点が導入されたのはつい最近だったはずだ。「句読点研究会」というマニアックなサイトによればそれは 1906(明治39)年の「句読法案」以後のことだという。それ以前の文章、特に中世以降の公文書に使われた候文などは極めて奇ッ怪な文体で、「候ば」「候ども」「候ところ」と延々とつないで始めから終わりまでがワン・センテンスであることも珍しくない。区切りなしで連文複文を書くのは良くないと国語の時間に教えられるが歴史的および言語的根拠のない妄説であることがわかる。

文を書くときに読点の位置で悩むという話はよく聞くが文章の上達を望んでいるのなら騙されたと思って一度読点を封印して書いてみると良い。どうも読みにくいなと思ったら読点を打つのではなく句点を打って文章を分割しよう。その長さが貴方にとって最も書きやすい文の長さなのだというのは割と説得力のある仮説である。それを把握した上で「どこまで自然に一文を長くできるか」という課題へ挑戦するのも面白い。長いセンテンスを書けるようになったら長文と長文の間に極端に短い文を挿入することでその短文の印象を操作するといった小手先のテクニックも使えるようになるが今日はそういう話をしたいのではない。本題に入る。

いまだに読点には「、」と「,」が、句点には「。」と「.」の 2種類が存在し使い分けにも曖昧な部分が残っている。鉤括弧「」二重鍵括弧『』小括弧()中括弧{}大括弧[]山括弧<>二重山括弧《》隅付括弧【】などの使い分けは一層不分明である。段落の最初の 1文字は空白にせよというルールもあるが括弧から始まる段落には最初の空白を入れるのか入れないのかという問題もある。括弧内の最後の文章については「〜です。」と「〜です」のどちらが正しいのかも謎だ。

これらの設問が大切なことのように思える一方で無意味な気もするのは現代日本語の歴史がせいぜい百年未満しかないからだ。ましてや一部の人間が口を酸っぱくして布教する原稿用紙的な規則、例えば三点リーダ (……) は 2マスを使って 6つの点を打てだのダッシュ (——) は 2マス分引っ張れだの、こんなものはここ数十年の間に成立した約束に過ぎない。本当に遵守しなければならないルールなのだろうかという疑念の方こそ抱かれてしかるべきである。

最近の私は日記の中で「私」と「俺」を混在させたりして遊んでいるが、それは「一人称を統一しなさい」という要請に論拠を見出せないからである。「I」という一人称しか持たない英語では一人称の統一という問題は発生しないのであり逆にいえば日本語の一人称には英語にはない可能性が開けている。それをちょっと覗いたところでバチは当たるまい。

文法はつまるところ慣習法にしか過ぎない。現在は個性の時代とやらなんだから慣習も人それぞれだろう。

今日のニコニコ動画

古典的な恐怖譚において年寄りは年寄りというだけで恐怖の対象だった (平均年齢が現在ほどではなかった = 長命の老人というものが珍しかったのが 1つの原因だろう) が、最近のホラーではそのことが忘れられていると思うんだ。この動画のヴェルタース狂翁が泣き叫ぶ子供をガッシリと掴んだままこの台詞を繰り返している様を想像すると結構怖いのだが。