- Structure and Function

2007/04/28/Sat.Structure and Function

以前から論理学や数学のページを作りたいと考えている T です。こんばんは。

電車の中のトポロジー

デフォルメされた電車の路線図を眺めながら、ああ、要するにこれはトポロジーなんだな、ということに気付く。それだけである。オチはない。こういう発見が 1日を幸せなものにするが、その喜びを誰かと共有するのは非常に困難だ。せいぜい日記で垂れ流すくらいである。

構造と機能

構造と機能ということをよく考える。英語では structure と function であるが、function はまた「関数」の意味も持つ。Ligand に対して、タンパク質が立体構造依存的に function する。これは機能しているわけでもあり、ligand という変数に対する関数として振る舞っているわけでもある。構造と機能が不可分的に美を発揮するとき、それは機能美と呼ばれる。

構造というものは何段階にも積み上げることができる。例えばタンパク質は、位相幾何学的には 1本のポリペプチドでしかない。これを 1次構造という。しかし 1次構造には機能が宿らない。構造が複雑に発達するいずれかの段階で、機能というものが幻のように現れてくる。したがって、機能を有するものはある程度複雑である。

冷静に考えてみると、その現象が何らかの機能であるかどうかの判定は、極めて主観的な問題である。要素還元的な学問である物理学において、果たして「機能」というタームは存在するのだろうか。

その現象が何らかの機能である、というのは、その現象が何らかの意味を持つ、ということに等しい。この認定はとても恣意的なものだ。ある現象を機能として認めるということはつまり、我々はその現象の「文脈」を読んでいることに他ならない。文脈、背景、行間、空気、前提、暗黙の諒解……、我々はこれらをどのようにして察知するのか。以前に「設定考」として書いたこともあるが、これは非常な難問である。

機能として機能することが意味を意味する。私は私の死を死ぬ、ってのに似てるなあ。

cogito, ergo sum.

上段と全く関係ないが、「我思う、ゆえに我在り」という演繹は論理学的に正しいのだろうか。この命題 P の逆、裏、対偶を取ってみよう。

 「我思う  ⇒ 我在り」 (この命題を真と仮定する)

逆 「我在り  ⇒ 我思う」 (必ずしも真ではない)

裏 「我思わず ⇒ 我在らず」(必ずしも真ではない)

対偶「我在らず ⇒ 我思わず」(真)

さて、P の対偶命題において「我」がいないことを誰が判定するのか? 他者か? しかしデカルトの懐疑論において、「思う我」以外の対象は全て懐疑の対象である。外界の認知は全て信じることができないから、「思う我」の「存在」をデカルトは第一原理 (コギト命題) とした。したがって「我在らず」という命題自体がナンセンスであるともいえる。デカルトの命題空間が「我」というものから出発している以上、「我」がないのであれば他のいかなる命題も発生しない。どちらかといえば、命題 P はトートロジーの類である。

まァ、「我」のような自己言及の語を命題の中で使うこと自体が (現在の記号論理学の水準では) 禁じられているわけだが。もちろん、ここに書いたことは遊びである。