- 日本人の理性

2007/04/07/Sat.日本人の理性

日本人は最も理性的な人種ではないかと思っている T です。こんばんは。

日本の若い女性は、ときに非常に露出度の高い服を着て街を歩く。これが批判された一時期があった。キャミソールなどは下着ではないか、などと言われたものである。外国人が知ったような顔をして、次のように述べていたのが印象的であった。「あんな格好をして歩いている女性が目の前にいて、日本の男性が襲いかからないのが不思議だよ」。要するに、この発言をした外国人男性は、たかだかキャミソール程度で「辛抱ならん」状態になるのである。逆に、日本男児の心は下着もどき程度では揺れ動かない。まことに理性的だ。

沖縄でたびたび起こる、米兵による女児暴行も、日本男児にとっては理解しがたい。日本でも増えて来つつあるようだが、欧米、特にアメリカにおける幼児虐待というのも、日本的理性では理解に苦しむ。それほど抑制が効かなくなるという心理がわからない。こういう人種であるから、逆に『純粋理性批判』となる。日本の古い哲学は、あまり理性というものを論じない。理性があって当たり前、それが前提だからだろう。本能を抑制できるからこそ、「切腹」が成り立つ。本能が抑制できない人種は、ギロチンなどという不細工な道具を必要とする。カミカゼやハラキリはクレイジーではない。理性が勝つからこそ実行できる行為である。念のために断っておくが、だからといって特攻や切腹が高尚な行為だと主張しているわけではない。

一休や親鸞が女体を貪っていた、という事実は興味深い。厳しい戒律によって女犯を戒めなければ理性が保てない輩とは、レベルが違うのである。

少々脱線するが、京極夏彦の京極堂シリーズにおいて、中禅寺秋彦と関口巽がともに妻帯者であるという設定は、探偵小説史上画期的なことであると以前から考えている。これについてはまた詳しく述べたい。今は、デュパンと「私」も、ホームズとワトソンも、御手洗潔と石岡和己も、金田一耕助も神津恭介も矢吹駆もメルカトル鮎も犀川創平も、およそ名探偵らしき名探偵は誰も結婚していないし、女に興味があるフリすら見せなかった、ということを指摘しておくだけに留める。中禅寺秋彦の登場は、日本の探偵小説における「理性」が、ようやく欧米のそれから離陸したことを示すものだと考えるのは私だけか。ちなみに、明智小五郎は結婚している。この点でも、やはり乱歩はユニークであり、先進的である。

話を戻そう。スタンディング・オベーションや、ブーイングという行為もよくわからない。素晴らしかったら立ち上がって手を叩く、つまらなかったらブーブー文句を垂れる。単なる情動失禁ではないか。海外の映画を観るたびに違和感を感じるのもこの点だ。怒れば机を叩いて立ち上がる、嬉しかったり悲しかったりすればボロボロと泣く、恐ろしければ失禁する。これらの振る舞いは、日本的な感覚からすれば「大袈裟」であり、リアリティがない。

日本人の感情表現がわかりにくい、というのは有名な話である。しかし我々が、外国人の感情表現を理解するのはたやすい。つまり、日本的感情表現は他のそれらに対して上位互換性を持つ。そういう意味では高級であり、この能力を担保しているのは日常における理性の水準の高さではないかと考える。

なんてね、半分は冗談ですよ。