- 古典を読む

2007/01/19/Fri.古典を読む

岩波文庫の棚がある、というのが本屋に求める最低条件の T です。こんばんは。

岩波の本は書店の買い取り式である (出版社に返品できない)。売れない岩波の本は、不良在庫として延々と本棚に残り続ける。したがって、小さな書店では岩波の本を扱っていない。逆に、岩波のコーナーが存在する書店であれば、その他の品揃えもある程度以上は保証されていると考えて良い。一種のバロメーターだな。

研究日記

本日は休み。なのだが、回収しなければならないサンプルがあるので、午前中だけ大学に行く。どうもボスがやりたいことに対して人手が足りていない。私が病院と大学を行ったり来たりするのは、身も蓋もない言い方をすれば、単なる時間の浪費である。仕事であるから不満ではないが、ドサ周りがなくなれば今少し生産性も上がるであろうというのもまた事実だ。まァ、そんなことはボスもわかっているだろうが。

『論考』

大学には徒歩で通っている。帰りは散歩気分で本屋とクリーニング屋に寄った。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読み始める。誤解を承知で正直な感想を述べれば、想像していたよりも随分と理解しやすい。全く難解な本ではない。いずれ書評を書くが、思ったことを全部記述するとかなり大部になりそうである (書評の分量はおおよそ読書の感動と比例している)。『論考』は短い命題の連続からなるので、部分的に抜き出して日記で取り上げるのが良さそうだ。

『論考』に書かれてあることは、私が日記などで開陳している考え方と似通っている。無論、この言い方は正確ではない。私が興味を持って読んだ本の中に、既にウィトゲンシュタインの思想が通っていて、私はそれを間接的に摂取した、というのが正しいだろう。これが学問の凄いところである。例えば恥ずかしい話であるが、私はまだダーウィンの『種の起源』を読んだことがない。それでも進化論が何であるかはおおよそ知っているつもりである。ユークリッドの『原論』を読んだことのある数学者、ニュートンの『プリンキピア』を読んだことのある物理学者って、どれくらいいるのだろう。

サイエンスはテキストを研究する学問ではないから、古典を読む必然性は特にない (それが科学が急速に発展する理由の 1つであるともいえる)。一方で、当時の人類が手に入れた最高の叡知に目を通さないのは勿体ないなあ、という思いもある。昨年は意識して幾つかの古典を読んだ。ヒルベルト『幾何学基礎論』ハッブル『銀河の世界』、サイエンスではないが、カエサル『ガリア戦記』などである。無理に理解する必要もないし、古典的名著だからといって必ずしも面白いわけではない (面白くなかったからといって自分の感性を嘆くことはない) という姿勢で、まずは触れることは第一義として (低い目標だが) 読んでいる。しかしまァ、何だかんだいって面白いのだから、さすが古典というべきか。

実は今も、ダーウィン『種の起源』、ゲーデル『不完全性定理』が未読のまま積んである。この手の本は読むのに時間がかかるので、比較的時間に余裕のあるときしか手に取れない。気が向いたら読むつもりではいる。大学付近の本屋というものは、例えそれがポーズであったとしても、岩波文庫の品揃えが充実しているので重宝する。