- I・RA・CHI

2006/12/09/Sat.I・RA・CHI

いらちの T です。こんばんは。

研究日記

病院。

デスクワークと実験を平行してやりながら、そろそろ年末の予定を考える。細胞の培養は 22日に打ち切る予定である。それまでにどれだけの実験ができるかを計算する。もっとも、なかなか予定通りにはいかないのだが。だからといって、計画しないわけにもいかない。要するに計画とは buffering である。そんなことを最近は思うようになった。

私は基本的に細かい所にこだわる性格だが、最終的には「どうでも良いや」と放り投げることができる性分でもある。意図的に放り投げることもある。これができない人が多い。いや、素晴らしいことなんだけどね。真面目だなあと感心するが、こういう人は、自分の立てた計画に苦しめられることがある。手前の立てた計画だろ、変更でも破棄でも好きにすれば良いじゃないか。私なんかはそう思うのだが、どうも違うようだ。

というようなことを、先日の忘年会で話した。研究員嬢は、気の毒なほど几帳面な性格である。そこまでせんでも、というくらいにキッチリやる。そうしないと気が済まない、というか、罪悪感が湧くらしい。自分でも「助けて」と思うことがあるという。そして選択が苦手である。「自分はこっちだと思うが、神様は違うかもしれない」と思っては迷うらしい。何だ、神様って。笑える。酔っていたからよく覚えていないが、概ねそんなことを言っていたように思う。関係ないと思うが、私は O型で、彼女は A型である。

私もあまり選択は得意じゃない。なので、状況が許す限り全ての選択肢に当たるようにしている。労力はかかるし無駄骨も多いが、悩むのは嫌いだし、思い掛けない発見にも出会う。「どれを選択すべきか」という迷いには、「どれかが正解 (best) である」という無意識の前提がある。と私は思う。私はこの前提を疑う。そんな仮定は無意味だ。

もっとも、研究員嬢のような思考を否定しているわけではない。私のやり方は、関西弁で表現すると、「グチャグチャ言うてるヒマがあったら全部やってもたらエエねん」という、極めて底の浅い方法である。いらちの発想だ。慎重さに欠け、考えれば明らかに排除できる選択肢や誤謬も一緒にしてしまう。これを「味噌も糞 (クソ) も一緒」という。関西特有の表現だろうか、他の地方の人が言っているのを聞いたことがない。

まァ、中庸が大事ということで。