- 刺激と反応の関数論

2006/10/01/Sun.刺激と反応の関数論

外食ばかりで、家で発生するゴミのほとんどが酒の空缶と文庫本の帯であるという T です。こんばんは。

今月から京都では、指定の袋を使わなければゴミが出せないことになった。袋は 2種類。有料である。家庭ゴミ用の黄色い袋が、45 L のもので 10枚 450円。資源ゴミ用の白い袋が、45 L のもので 5枚 110円。ゴミの減量が目的であるから、袋の値段はやや高い。

京都に来たときに驚いたのが、その分別の寛大さである。以前にいた大学では、それはやかましく分別をさせられたものだ。今の職場ではそんなことはない。この生ぬるい分別方式が続くのならば、袋が有料になろうと、それがいささか値が張ろうとも構わない。袋は金を出して買えば済むが、ゴミの分別には時間が取られる。

この狭い日本で、ゴミの処理に金がかかるというのは、考えてみれば当然である。必要だというのなら、レジの袋でも何でも有料にしたら良かろう。だが、本当に効果があるのかな、とも思う。レジ袋が 5円だか 10円だか知らないが、そのお金で「買物袋を持ち歩かない自由」を選択する人間も相当いるのではないか。俺もそうするだろう。

研究日記

大学 → 病院。

自然科学系の研究の主たる手法は、観察と実験である。これを数学に当て嵌めるとどうなるか。

観察は数論であるかもしれない。所与の数列 (自然数、素数など) をあれこれイジって、その性質、関係性などを議論する。驚くべきところに意外な関係が存在していたりして、そこに神秘を感じたりする。

実験は代数学であろう。例えば、ある刺激 x を細胞に与えたときに計測される反応、つまりこれは f(x) という関数である。我々は様々な変数を関数に与え、結果として現れた値から関数 f、すなわち生命のシステムを推測する。予測した関数が正しければ、任意の刺激 x に対して関数が取り得る値も予想できる (作業仮説)、というわけだ。セントラル・ドグマは関数としての典型例だろう。ある変数 (塩基配列) に対して、関数 (転写翻訳系) は、必ず決まった値 (タンパク質) を返す。生物の機械論とは、このような考え方である。

脳は入出力装置であり、コンピュータに比喩されることも多い。コンピュータは関数の集合体である。決まった入力に対して、決まった出力を行う。だが脳は、刻々と関数自体が変化する系である。同じ本を読んでも、ときに印象が異なることもある。ここが脳の面白くて難しいところだ。

さて、脳の変化自体をも関数で表現することができるだろうか。もし可能であるならば、精神とて一つの関数であるということになるのだが。