- ファンタジーと造語

2006/08/25/Fri.ファンタジーと造語

久し振りに出歩いた T です。こんばんは。

慈照寺吉田神社平安神宮を回ってきた。新しく買ったデジタルカメラを存分に使う機会がようやく訪れたこともあって、大いに楽しむ。かなり暑かったが。

ファンタジーと造語

ファンタジーに関する議論の続き。

異世界を描く上で最後の困難は、言語に関するものであろう。作者は、その異世界で使われている言語を創造することは可能だが、その言語で小説を書くことはできない。書いたとしても、もはや誰も読めない。したがって、何とか母語で異世界の言語を表現せねばならない。

この問題を考えるとき、「ロボットの話す言葉はカタカナで表現する」というルールを確立した人間のことが思い浮かぶ。「ワタシハ、ろぼっとデス」という表現方法を思い付いたとき、彼はまさしく翻訳の神様であったろう。もっとも、この方法は原書からインスパイアされたものかもしれない。英語圏では、しばしば大文字のみ (あるいは小文字のみ) のセリフ表記が見られるからだ。仮にそうだとしても、やはり最初に考え出した人間の天才には変わりがない。

日本語においては、言語を異化する 2つの有力な手法が存在する。漢字とルビである。表意文字という漢字の性質上、「読めないけれど何となく意味がわかる」という奇妙な表現が成立する。実際、筒井康隆『驚愕の曠野』中村誠一『幻の戦士・鈴唐毛の馬慣れ』という作例が存在する。また、ルビを使用することによって、表意と表音の分離が可能となる。非漢字文化圏では、例えばラヴクラフトのように、「『Cthulhu』は人間には発音できない」というような説明をしなければならず、いささか大変である。

このように、ファンタジーと造語には密接な関係がある。既存の神話や世界観を引用したようなファンタジーに俺が魅力を感じないのは、小説言語として面白くないからである。むしろ、哲学や宗教のように、精神世界という別世界を記述しなければならない分野において、魅力的な用語が頻繁に見られる。他の学問分野でもそうだが、よく定義された事柄を誤解ないよう伝達するために、日々新たなタームが創造され、その内のいくつかは言葉として非常に興味深いものとなる。新たなタームが必要とされるということは、その言葉で表される概念や事象が全く新奇なものだからであり、それはつまり、広い意味でのファンタジーでもある。