- ファンタジー度

2006/08/23/Wed.ファンタジー度

安易なファンタジー小説は嫌いな T です。こんばんは。

今日から夏休み。掃除、洗濯、買い物、散髪など。寝たり起きたり。

作られた世界

かなり以前から、「ファンタジー度」の高い小説を読みたいと熱望しているのだが、なかなか叶うことがない。「ファンタジー度」というのは我が造語なのだが、要するに、「異世界を描く作品」としてファンタジーを定義したとき、その「異世界」がどこまで「作られたもの」であるかを示す度合いである。

あくまでも別世界を描こうとするならば、作者はその世界の言語、政治、宗教、歴史、経済、社会、自然、物理、技術その他、とにかく世界を構成するものを何から何までを想像・創造せねばならぬ。が、それは大変なので、作品と深く関係しない部分は、暗黙の了解として現実世界あるいは既存のファンタジーのコードをそのまま引用する。作品の構成上、または実際の創作問題として、全ての世界事象を作者が描写する必要はない。したがって、「ファンタジー度」と作品の質は全く別問題である。その点を踏まえ、もう少し議論を進める。

ファンタジー度とヴィジュアル化

ファンタジー度は、世界観あるいは設定の多寡で便宜上定量化することができる。「世界観」というタームについては、大塚英志『定本 物語消費論』で詳しく述べられており、なかなか面白い。世界観という概念は漫画やアニメといったメディアでよく発達している。それは恐らく、これらのメディアが視覚表現だからであろう。例えば小説なら、「主人公は街に出た」と一行書けば済むような描写でも、漫画やアニメでは実際に「街」を「絵」にしなければならない。当然そこに現れる建物、人間、都市、商品などは異世界のものであり、それをヴィジュアル化するには何らかの指針が必要である。それが世界設定となる。漫画やアニメは複数の人間によって制作される (ことが多い) という現状が、この傾向に更なる拍車をかける。世界観は矛盾しないよう厳密に構築され、あらゆる場面を想定した膨大な細かい設定が与えられる。つまり、ファンタジー度が高くなる。近年ではゲームも同様であり、いわゆる完全攻略本では世界観の解説に一章が割かれる。

世界観は多人数が参照することを前提としているため、その解読には消費者も参加できる。結果として、世界観を引用した 2次創作の発生、もしくは消費者による世界設定の追加という現象がこのメディアでは発生しやすい。

一方で、小説はどうか。俺が最もファンタジー度の高いと思った作品は沼正三『家畜人ヤプー』だが、この作品が石森章太郎と江川達也の手で漫画化されているのは興味深い。古典的なファンタジー、例えばドラキュラやタイムマシンが様々な亜流を生んでいるのも、やはりルールがきちんと整備されているからである。縛りが大きいほど、どうもこの傾向は強いらしい。

次回は、小説に絞ってファンタジーを考えてみたい。