- Diary 2006/05

2006/05/31/Wed.

最近、1日に 2、3行というペースで小説を書いている T です。こんばんは。

小説というか戯作である。手慰みに書いているだけだが、完成まで漕ぎ着けたいとは思っている。挫折しないよう、ここにその事実を書き留め、自分にプレッシャーをかけておく。

タイトルは『鬼を斬る男』で、最初の 1行はこんな感じ。

日本史上最も有名なその男の姓は、今に至るも伝わっていない。名を桃太郎という。

間違いなくアホだ。夏までに書けたらな、と思っている。

研究日記

病院 → 大学。今後の実験について、ボスとディスカッション。あれこれと 3時間ほど。長ぇよ。

2006/05/30/Tue.

ゴルゴ13 のように働きたい T です。こんばんは。

Web 日記

ここ数ヶ月に書いた日記の分量は、平均して約2万字/月である。原稿用紙にして 50枚/月であるが、これは隙間なく文字を詰めた場合の計算なので、実際には 75〜100枚/月となるだろうか。1日 2〜3枚、1年で約1000枚となるわけだ。その気になれば、1年の日記を 1日で読み切ることも可能である。記録としてはまずまずの量だろう。

2万文字は 4万バイト、つまり 40 KB でもある。タグなどの情報を含めれば 50 KB/月程度であろうか。1年で 600 KB、2年間書き続けて、ようやくフロッピーディスクが埋まる。レンタルしているサーバ・スペース 500 MB を埋めるには 1万ヶ月、8世紀以上の時間が必要だ。200 GB のハードディスクを埋めるにはさらに 400倍、30万年以上かかる。「かかる」っていわれても困る年月だが。

情報量に対する容量の効率性に記号の特性がある(文字は記号である)。絵画を完全にデジタル化しようと思えば無限の画素が必要であり、すなわち無限の容量が要求される。面白いのは音楽である。生演奏を完璧に記録するならば、同様に無限の容量が必要だろう。しかし音楽は、楽譜という形で記号化できる (MIDI ファイルが軽いのはこのためである)。

演奏された音楽と楽譜は違う、という意見もあるだろう。しかしそれは、印刷された本とディスクに記録された原稿は違う、という主張と同じである。違うといえば違うし、無視できる差異ともいえる。意見は人それぞれだろうが、失われるものを補うために消費される資源やエネルギーとの釣り合いが、いずれ問題となるだろう。

研究日記

終日病院。事務仕事多数。細胞の固定などを少し。

2006/05/29/Mon.

惰眠を貪った T です。こんばんは。

ドラゴンクエストとファイナルファンタジー

今は一つの会社になってしまった SQUARE ENIX の 2大タイトルといえば、「ドラゴンクエスト」 (DQ) と、「ファイナルファンタジー」 (FF) であることに異論はないだろう。この 2つは SQUARE ENIX だけでなく、日本を、否、世界を代表する RPG といっても良い。これらにネーム・バリューで対抗できる唯一の RPG は「Wizardry」だろうが、このゲームは進化を放棄してから久しい(それゆえに残っているともいえるが)。

俺の世代では、FF よりも DQ に人気がある。というよりも、DQ は「特別な」ゲームであり、いかに FF が飛び抜けたゲームであるといえども、決して同じ位相に立つことはない。DQ と FF には決定的な違いがある。

DQ にはクレジットがある。(c) 堀井雄二であり、(c) 鳥山明であり、(c) すぎやまこういちなのだ。仮に、キャラクター・デザインが鳥山明ではない DQ が作られたとする。それは果たして DQ といえるだろうか? FF は誰がシナリオを書いても FF として成立するが、DQ ではそれが成り立たない。すぎやまこういちが死ねば、DQ というゲームも生命を終える、という想像すら可能である。そういう問題なのだ。DQ 方式と FF 方式、どちらが良いかはわからない。むしろ俺以下の年代では FF の人気が圧倒的であり、DQ 方式が「古い」ことは明らかである。

現在、小説など一部を除くほとんどの創作物がグループの手によって生み出されており、DQ と FF の問題は一考に値する。DQ 方式と FF 方式の中間にあたる、さいとう・たかを及びさいとうプロダクションという「さいとう方式」も存在し、中々奥が深い。要するに「個人と歯車」の問題へと還元されるのだが、これは一般の仕事にも当てはまる。

「無名の個人」の空間であるネット・スペースは、そういう意味で面白いポジションにいると思うのだが。

研究日記

許可を得て仕事を休む。ボスからのメールを 2、3件さばく。

体調が悪いとかいっても、それは風邪などではなく単なる疲労であるから、休日さえあれば回復するし、そもそもこんな事態にすらならないのである。別に強制されて働いているわけではないが、実際問題として休めないのもまた事実。それとも、俺の思い過ごしなんだろうか。「俺がいなければ」という傲慢なガンバリズムが周囲の人間にウザがられている、という可能性もあるかもしれない。だとしたらイヤだなあ。

「ボスが心配してましたよ」というメールを臨床検査技師嬢から受け取る。ボスってこういう小技が上手いんだよな。

2006/05/28/Sun.

ハッピーターンの粉はマジで旨いと思う T です。こんばんは。

最近、食べ物がないと寂しくて、夜のコンビニで菓子やら何やらを大量に買い込んでしまう。「この 1ヶ月は仕事の話ばっかりだなオイ」とか思いつつ、日記を書きながらボリボリとむさぼり喰っているわけである。色々と書きたいことややりたいこともあるが、何となく焦点が定まらないまま、漠とした時間を過ごしている。

何かしたいなあと思うのだが、何をしたいのか自分でもよくわからない。

研究日記

大学 → 病院。体調最悪。休み欲しい。

「運動時間が減っても大した問題ではない」と昨日の日記で書いた。先日も職場で話していたのだが、基礎科学の人で太っている人間を見かけたことがない。例えば俺の周囲がそうであった。先輩研究員の旦那様や臨床検査技師嬢の兄上も理学部の御出身であり、御本人や周囲の方々もやはり痩せているという。これが局地的な現象ではないことは、学会に行けばよくわかる。

サイエンスをやっているから太らないのか、太っていない人がサイエンスをやっているのか。それはわからないけれど、仮に後者であれば運動の必要などない、といういささか非科学的な結論が出てくる。

まあ、運動が影響するのは肥満だけではないわけだが。

2006/05/27/Sat.

今夜も多群兄とメッセンジャーで話し込んだ T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院 → 大学。我が豪邸から大学への移動には、先生から頂いた自転車を使用した。これまでは徒歩だったので通勤は楽になったが、貴重な運動時間をどう補うのか、という新たな課題も出てくる。が、大した問題ではない。理由はまた明日。

大学で動物の世話をしてから、病院で細胞の世話をし、再び大学に戻って簡単な実験。非効率な動線であるが、動物や細胞には時間を決めた処理を行っているので、どうしてもこうなってしまう。Molecular な実験なら容易に止められるのだが、生き物が相手では、なかなかそうはいかない。「細胞を飼うのではなく、細胞に飼われる」という話を以前に書いた。まさしくその通りで、線虫というサボり甲斐のあるモデル生物を扱っていた俺にとって、「何でやねん!」と叫びたくなる事柄も多い。

俺が今、細胞を扱った仕事で給料を貰っているのは、その細胞が ES であったり高等脊椎動物のそれであるというのが大きな理由になっている(と思われる)。同じことを線虫でやれば、より早くより安くより簡単に遂行できる自信があるけれど、それでは金銭が発生しないだろうという予感も、同程度に確信を持っていえる。これは、「研究と学問は違うのではないか」という疑惑の社会的な側面かもしれない。無論、それだけではないだろうが。

2006/05/26/Fri.

今月は GW しか休みがなかった T です。こんばんは。

Web 日記

久々(数ヶ月ぶり)にメッセンジャーをつけたら多群兄が。ネットラジオとか podcast について少し語り合ったのだが、どうやら多群兄もラジオを始めるらしい。楽しみ。

研究日記

大学 → 病院 → 大学。月曜に日本を発たれる先生から、最後の引き継ぎ。膨大なファイルを頂戴する。ついでに電子レンジと自転車も頂戴する。どっちも持っていない俺もどうなんだ、というのはおいといて、ありがたく使わせて頂くことにする。

原付とバイクを買ってから、もう何年も自転車のない生活を送っている。自転車に乗ったのは 4年ぶりくらいだろうか。大学に寄るときは漕いでいこう。

2006/05/25/Thu.

カラオケに行きたい T です。こんばんは。

「裸の大将」のテーマ曲から。

♪時には辛い人生も 雨のち曇りで また荒れる

なかなか晴れねえな。

研究日記

終日病院。ベクターのクローニングなど。まずまず順調。

ボスと 2人で晩飯。いつぞやの串カツ屋へ。若者が集まるような店で、串も特別に旨いというほどではないのだが、いつも食べ過ぎてしまうのは何故?

2006/05/24/Wed.

ひょっとして研究と学問は違うのではないかと思っている T です。こんばんは。

研究日記

終日病院。

学会の抄録を 2つ書く。ともに英文。文章に目を通したボスから、「もっと勉強を」と言われる。やらなければならない事務や、結果として現れる実験を、ついつい「仕事」として優先させているのは事実で、なかなか耳が痛い。勉強も仕事であると認識し、きちんと時間を割くようにせねばならんだろうなあ。勉強は嫌いじゃないが、どちらかというと時間のやりくりが難しい。ま、少しずつ。

靴下のかかとが破れていたので (履くときに気付けよ)、本日は素足にサンダルで実験。なかなか気持ち良い。先日調整した抗体を用いて flow cytometry。感度が強烈で、分画がおかしい。抗原と抗体と標識の量比は同じなので、抗体を減らせば解決というわけにはいかない。難しいなあ。ま、少しずつ。

2006/05/23/Tue.

仕事のことしか書かない日が増えてきた T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。大学で実験動物の世話をしてから、シーケンス・サンプルを回収して病院へ。遺伝子組換えした細胞を薬剤刺激して flow cytometry。第1回目の実験だが、なかなか良いデータである。事務仕事多し。

2006/05/22/Mon.

全く違う分野の人間が日常的に描くイラストを見てみたい T です。こんばんは。

生物学をやっている人が、妙に中心のずれたいびつな二重丸を描けば、それは細胞と核を意味する。波線ならば大抵は mRNA もしくは DNA であるし、Y と書けば抗体である。何もいわずとも通じる。しかし他の分野の人には何が何だかわからないわけで、例えばベクターの絵を見て、それを幾つかの駅がある環状線と思うかもしれない。

生物学アスキーアート (1文字編)

で、作ってみた。

.
大腸菌。
酵母。
線虫。
ショウジョウバエ。
g
胚。

2文字以上ならまだまだ作れるけど、今日はこれくらいで。

研究日記

大学 → 病院 → 大学。

細胞を移植した動物を大学で観察させてもらった後、午後から病院。抗体を蛍光色素で標識するキットがあって、これを試してみる。通常は、

抗原 >-1次抗体 >-2次抗体-標識

という具合なのだが、このキットを用いることによって、1次抗体を直接標識できる。

抗原 >-1次抗体-標識

となるわけ。メリットは、抗体反応が 1回減ること。デメリットは、2次抗体式よりは正確さに欠けるであろうこと。不確定要素は感度。抗体も標識キットも高価なので、無駄に終わることが最も恐ろしい。そのようなリスクを犯してまで 1次抗体式にチャレンジするのは、検出の対象が生細胞であり、かつその細胞だけを取ってきて再び培養したいからである。現在ネックになっているのは細胞の viability で、抗体反応中にドンドコ死んでいくのが頭痛の種になっている。抗体反応の回数を減らすことで克服できれば良いのだが……。

夜はセミナー。留学される先生のラスト・プレゼンテーション。総集編という感じで真に壮観だったが、この仕事を引き継ぐのは他ならぬ俺なのだ。無理だろ実際。ははは。

大学に寄ってシーケンスをかける。ハンバーガーを食べてから、日付が変わる前に帰宅。

2006/05/21/Sun.

買い物に行く機会が少ないので、ついつい買い溜めしてしまう T です。こんばんは。

Web 日記

「誰か podcast やってよ」という日記を書いたのが三ヶ月ほど前。その後、KID JOE 兄「ネットラジオやろうかと思って」と発言したので楽しみにしていたんだけど、野郎、いつまで経っても始めやしねえ。ここに晒してプレッシャーをかけておく。

研究日記

終日病院。細胞の世話と、来週の実験の準備。夕刻には帰宅。

2006/05/20/Sat.

「結婚したら大変ですよ」と大学院生の先生に脅された T です。こんばんは。

この先生 (3児の父) とは前後 2回ほど結婚についての会話を交わしたが、いずれも否定的な受け答えに終始した。

先生「独身ですか」
俺 「はい」
先生「羨ましいですね」

先生「結婚の予定はあるんですか」
俺 「いえ。仕事を始めてから、結婚したいなーって思うことも増えましたけど」
先生「いやあ、大変ですよ」

とにかく結婚は大変なのだと説かれる。ちなみに、この先生は小児科医。子供が減れば飯が喰えなくなるという商売にも関わらず、自分の将来よりも俺の将来を心配してくれる。余程なのだろう。と俺は思うしかない。

研究日記

大学 → 病院。可及的速やかに仕事を終わらせて帰宅する。たった数時間の連続した「自分の時間」すら、こうでもしないと手に入らない。この現状が果たして正常なのか異常なのか。自分より忙しい人は山ほどいるし、ヒマな人も無数にいる。もともと俺は「正常」とされる範囲に積極的な価値を見出していないので、結局は個人の充足度が問題であろうという極めて月並みな結論に落ち着く。しかしこの結語は逃避であるかもしれない。

月極

「極めて月並み」という文字列で思い出した。本当につまらない話だが、思い出してしまったので書いておく。

それがいつ頃までだったのかは思い出せない。とにかく俺は「月極」を「げっきょく」と読んでいて、これを固有名詞と思っていた。

「月極駐車場」は「げっきょく駐車場」であり、つまり「げっきょく」という会社(俺の中では「株式会社げっきょく」だった)が運営する駐車場なのだ。個人が運営するものも含めれば、全国の月極駐車場は膨大な数になる。何しろそこら中にあるのだ。「げっきょく」はいかにしてこれほどの独占を構築するに至ったのか。謎である。また、これらの駐車場を管理するには相当の人員が必要だ。巨大な会社なのだろう。しかし「げっきょく」のビルや事務所を見たことがない。不思議なことである。「げっきょく」はニュースに登場することもなかったし、この会社について周囲の人間が語ることもなかった。あまりに不自然過ぎる独占状況、予想される規模に反して全く見えてこない実態。ひょっとして「げっきょく」は日本最大のタブーなのではないか。

若かった俺はそんなことを考え、月極駐車場の横を通るたびにドキドキしていたのである。ああ恥ずかしい。青春だなあ。

2006/05/19/Fri.

更新が停滞気味の T です。こんばんは。

研究日記

RI
Radio isotope(放射性同位体)の略。RI を扱うためには規定時間の講習を受けることが法律で定められている。一部の原子を放射性同位体に置換した分子は放射線を検出することによって追跡できるが、最近では蛍光色素などの代替手法が発達しており、脱 RI の風潮も強い。

終日大学。朝から RI 講習。午前は講義で午後から実習。夜は留学される先生の送別会。大学の方が主催で 30人ほど集まり、中華の店で盛大に行われた。病院組は遠距離通勤者が多いので 2次会をパスし、コーヒーで軽くダベってから帰宅。

2006/05/18/Thu.

知らぬ間に複数のプロジェクトに関わっている T です。こんばんは。

研究日記

終日病院。ボスとディスカッション。かなりキツい(というか無理だろ的な)要求を伝達される。確かに承る。承るのは簡単だ。

150% の要求を出し、こちらがヘロヘロになりながら 120% くらいやったところで「ここまでが限界でした」と弁解するのをニコニコと承認する。これがボスの日常的な戦術ではないのかということに最近の俺は気付きつつある。ならばどこまで騙されてやるかというのが俺の戦術になるわけだが、もちろんそんなことは誰にも言わないし、ある程度のプレッシャーの下でバシバシと結果を出していくのは職業人として当然のことでもある。

若干問題があるとすれば、各グループに対するボスのプレッシャーのかけ具合が大きく違うということであろうか。能力の高い人間、期待の大きいグループ、リターンの大きいプロジェクトほどボスから喰らうプレッシャーは増す。しかしこれだって、どのラボにも共通する風景であろう。応じられる分は応じるのが我が仕事だ。

晩飯はボスに連れられ、研究員嬢、臨床検査技師嬢とともに豆腐を食べに行く。

2006/05/17/Wed.

振り子のように複数の施設を渡り歩いている T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。大学では動物実験施設に立ち寄り、細胞の移植手術をした動物を、ボスと表敬訪問。

大学でかけたシーケンス・サンプルが読めていない。大学のシーケンサーを触るのは今回が初めてだったのだが、機械が変わると原因不明のトラブルが必ず起こる。たかがシーケンスではあるが、安定している系といえども、しょうもないことを知らなかったが故の失敗は大いにあり得る。それはこの 1年間の立ち上げでイヤというほど経験してきた。何かを間違えたことには間違いなく、その原因が全くサイエンティフィックではないことも多い。一々ヘコんでいるヒマはない。対応力だけは身に付いた。転職ドンと来いってなもんである。

晩飯を臨床検査技師嬢、テクニシャン K嬢と食べに行く。

2006/05/15/Mon.

最近は早起きの T です。こんばんは。

研究日記

終日病院。朝イチでボスの部屋に呼ばれる。イヤな予感。「今日、研究所のセミナーがあるんだけど」。来た。「20分ほど喋ってくれない?」。学生の頃からこの手の要求に慣れている自分が恨めしい。二つ返事で承諾し、午後に発表。セミナー後のスタッフ・ミーティングにも参加して、気付いたら夕刻。

遅い昼食を摂り、論文に目を通すが頭に入らない。テクニシャン嬢に頼んだ実験の結果は今イチ。失敗ではなく、そもそも再現性を取るのが難しい系なので仕方がないが、仕方がないとばかりも言っていられない(失敗の方がまだしも対策が立てやすい)。こういう「ビミョー」な系を用いること自体が課題となり得るのだが、新しい系でなければ検討できないこともまた存在する。泥沼にハマる危険性を考慮しながら粘るか、系の確立を一つの仕事と考えて本格的に腰を据えるか、潔く諦めるか。研究をまとめるには、若干の政治的判断も必要であろう。

論理的には正しいはずなんだけどなあ。でも、我々が手にしている「論理」とやらの完全性に少しでも思いを巡らせてみれば、とてもそんなことは言えない。

小噺

「何回やっても再現性がありません」
「『再現できない』という現象には再現性があるわけだな」

2006/05/14/Sun.

T です。こんばんは。

小説に関する断章

小説は小説としての面白さのみで評価するべきであって、そこに作者というファクターを加味する必要性は全くない。そういう軸が一方で存在する。作者の思想信条宗教が作品に無関係であるわけはないが、しかしそれらは作品の評価と切り離すべきで、むしろ作者に関する情報が小説を読み解く上での妨げにすらなり得る、という考え方である。

もちろん、小説を「読み解く」ことに何かの価値があるとは限らない。読み解かれた作品はバラバラにされた知恵の輪のようなものだが、2つに分かたれたリングには既に「知恵の輪」としての魅力はない。

もう一方で、小説といえども作者の表現の一形態に過ぎない、という軸が存在する。たまたま作者が小説という表現形式を採用しただけで、それがエッセイであろうと現実の言動であろうと、実はそんなに変わらないんじゃないか、ということである。重要なのは「誰の言葉か」であって、例えばネット上に溢れかえっている「無名の」人々による大量の言説に対する有効な切り口は、このあたりにあるのではないかとも思える。

小説は何をどのように書いても良い自由がある。そう主張する作家は多く、俺もまた賛同する。しかしそのような無限の自由の中で、では何をもってそれを「小説」と判断するのか、そういう疑問が出てくる。「これが小説である」という枠組みを設けた瞬間、それは乗り越えられるべき文学的課題として、続く小説に破壊される。

同様な問題が俳句にもある。五七五プラス季語というルールがあるゆえに、「破句」という存在が成立する(「芸術的な、あまりに芸術的な」参照)。では、ルールを破れば全て破句となるのか。五七五七七という「俳句」はあり得るのか。原稿用紙 400枚に及ぶ「俳句」は? 破句であっても、我々はそこに何らかの「俳句らしさ」を感じている。その「らしさ」とは何なのだろう。

筒井康隆『着想の技術』は、小説を徹底的にメタな視点から捉えた名著である。ここで筒井は「登場人物」という項を設け、これまでにない登場人物像を展開しているが、そもそも小説に登場人物が必ずいるのか、という根本的な疑問には答えていない。動物や神々が登場する小説、あるいは筒井自身も『虚航船団』において文房具とイタチを主人公にした小説を書いているが、彼らは全て擬人化されており、人間のメタファーに他ならない。読者は彼らに感情移入できるし、そういう意味で「登場人物」なのである。感情移入できる依代が全く存在しない時空間で展開される小説は成立するのか(もちろん、その物語は最低限の面白さを持っていなければならないが)。

研究日記

病院 → 大学。病院では細胞の世話、その他諸々来週の準備。大学では別の細胞を固定。

以前に食べ切れなかったカレーのリベンジ。同じ相手と戦ってもしょうがないので、大盛りを注文する。普通に完食。この前はなぜ残してしまったのか。食欲がなかっただけなのかなあ。安心して就寝。

2006/05/13/Sat.

月末に買ったゴルゴ13 をようやく読んだ T です。こんばんは。

小噺

「彼は音痴らしいよ」
「聞いて呆れるな」
「聞くに耐えん噂さ」

拾い物

私は慄然たる思いで机の引出しから突如現れたその異形の物体を凝視した。

それは大小の球体を組み合わせたとしか言い様の無い姿をしており、狂気じみた青色が純白の顔と腹部を縁取っていた。這いずり回るような冒涜的な足音で私に近付くと、何とも名状し難き声で私と私の子孫のおぞましき未来を語るのであった。

また、それは時空を超越した底知れぬ漆黒の深淵に通じる袋状の器官を有しており、この世の物ならざる奇怪な装置を取り出しては、人々を混迷に陥れるのであった。

※野比のび太自叙伝より抜粋

研究日記

大学 → 病院。大学でサンプルを回収した後、病院で大学院生の先生と実験。細胞培養を少しと flow cytometry。

2006/05/12/Fri.

新しいデジタルカメラを購入した T です。こんばんは。

新デジタルカメラ

以前のカメラは 3年前に購入した。当時、最も高機能な機種の一つであったが、今では同じことが携帯電話のカメラでもできてしまう。「Photo Album」というコーナーを立ち上げてから、俄然写真に興味が湧いてきたのだが、これまでのカメラでは要求を満たせないことも多かった。

というわけで、今回の購入。カメラ自体は非常に気に入っているので、同じシリーズの最新機種を求めた。切実に欲しかった光学ズームとマニュアル・フォーカスが搭載されており、望んだ構図でビシバシとピント合わせができる。快感だ。

出歩くことに消極的で、そもそもその時間もなかなか取れない今の俺にとって、写真を撮るという口実を与えてくれるカメラは、外出の良い動機付けになっている。今回、新しいカメラで更にモチベーションが高まった。スナップを撮影するには申し分ないので、古いカメラも持ち歩こうと思っている。複数台のカメラを携帯するなんて、何となく趣味っぽいじゃないか。アホな考えだけど。

これからは普通の風景も積極的に撮影してみたい。例えば平等院で良い写真が撮れたとしても、それは圧倒的に被写体が良いからに過ぎない。それはそれで結構なことだが、誰でもできることであってね。写真以外にも色々と遊べそうなので、工夫してみるつもり。遊ぶときが一番頭を使うよなあ。

篦棒

「べらぼう」は「箆棒」と書くことを知った。どんな棒なんだろう。というより、箆(ヘラ)なのか棒なのか。ハッキリしてほしい。

ヒトラーのクローン

ヒトのクローンを作るという話になったとき、否定派の人間が、「ヒトラーのクローンができたらどうするのか」と反対しているのをよく見かける。「どうもならない」というのが俺の意見である。大体、「ヒトラーのクローン」は 3つの点において誤っている。以下に指摘しておく。

  1. ヒトラーと同じゲノムを持った人間が、必ずヒトラーになるとは限らない。ゲノムが同じであることは、「人間」として同じであることと同義ではない。これは一卵性双生児を見れば明らかである。
  2. 人類は既に「ヒトラー」を経験している。今更ヒトラーが現れたところで、(一部を除き)誰も耳を貸さないだろう。人類の進歩まで否定するのは、ちょっと性悪説に過ぎはしないか。
  3. ヒトラーのゲノムがヒトラーを作る、したがってヒトラーのゲノムを否定する、という論法をじっくりと考えてみよう。これは優生学である。つまりヒトラーの思想なのだ。反対している人は、このことに気付いているのだろうか?

断っておくが、クローン反対派を否定しているわけではない。ただ、反対するなら反対するで、議論に値する意見を開陳してほしい。否定するときほど、その対象を勉強しなければならない。「インテリジェント・デザイン批判」でも書いたが、科学を批判する人はなぜか科学を学ばない。おかしなことである。

研究日記

大学で細胞の刺激とかサンプル回収。今日はそれだけで、後はフリー。まあ、本当は休日だったんだけれども。

2006/05/11/Thu.

久々にゆっくりと食事をした T です。こんばんは。

シミュレーション

シミュレーションの目的は予測であって模倣ではない。既知の現象をよく模倣する近似系は、未知の現象もよく模倣するだろう。すなわち予測である。予測の的中は科学の勝利の一つだ。例えば、ニュートンの力学系は非常に精度の高い近似系であった。そのため、天体の摂動を計算することによって、当時発見されていなかった海王星を、まさにその位置に見付けることができたのである。

さて、我らが生物学の分野でシミュレーションの盛んな領域は、遺伝や生態、神経ネットワーク等であろうか。しかしこれらのシミュレーションは、いまだ模倣の域にすら達していないというのが実情である。例えば、遺伝学で我々が手にしているのは、遺伝のメカニズムと、遺伝される情報(つまりゲノム)程度。「ここに変異が起きるとこのような表現型が出る」という予測が可能になって初めて、遺伝学のシミュレーションは完成する。既知の現象を再現するのに躍起になっているのでは、まだまだ。だからこそ面白いともいえるが。機械的なニューロンによる思考の再現とかね。

非常に SF チックではあるけれど、「現実性の多寡」と「原理的に可能かどうか」は全く別問題。前者が応用科学、後者が基礎科学ともいえるなあ。

研究日記

大学 → 病院。病院では院生の先生に説明したりしながら少し手を動かす。事務仕事多数。今日も早めに切り上げて帰宅。

2006/05/10/Wed.

早めに帰宅した T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 大学。今日から大学院生の先生(医者なので「先生」と書いている)が病院の方へ来られるということで、色々と見学して頂く。医学部の大学院は、俺が知っている理学部その他の自然科学系の大学院とは大きく異なる。この話を書くと非常に長くなるのでまた今度にするが、例えばこの先生は俺より 10歳も年長で、分子生物学的な実験は全く初めて、そして何よりこのような状況は何ら珍しいことではない、ということを述べれば、我が感覚とのズレも御理解頂けるのではないかと思う。

この先生の研究遂行レベルというのは上に述べた通りだが、俺としては、年上の大人な男性が職場に来てくれるということをまず喜んでいる。確かに実験技術は俺やテクニシャン嬢達の方があるんだけれど、それは単に若い頃からやっているというだけのことであって、大した問題ではない。むしろ給料の発生する仕事という視点に立ったとき、俺のような若造に最も欠けているのは様々な人生経験であって、この温厚で落ち着いた大学院の先生が持つ肩書きと知性は、俺にとって非常にありがたい。その方面ではしっかり頼らせてもらおうなどと、いささか不埒なことを考えている。

2006/05/09/Tue.

2週間前にクリーニングへ出したきりのズボンがどうなっているのか気になっている T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。大学では、付属研究所で ES 細胞の培養についてのレクチャーを受ける。今週から病院の方に新しい大学院生の先生が来られるということで、簡単な顔合わせ。その後、皆で飲みに行く。日付が変わってから帰宅。

病院と大学を行き来している理由を書いていなかったので述べておく。病院では主に ES 細胞、大学では心筋細胞を使っている。心筋細胞は動物をサクって初代培養するわけだが、この作業が病院でできないために大学へ通っている。初代培養の細胞は動物から直接採取した細胞のため、コンタミのリスクが比較的高く、また、動物そのものが既に何かの病原菌に感染している可能性も否定できない。したがって、通常の株細胞とは別に培養する必要があるわけだが、そのためのシステムがまだ病院では整っていないのである。初代培養の系が病院で立ち上がれば、あちこち行き来しなくても良いのだが……。

ES 細胞も心筋細胞も培養が難しい(と言われる。俺は他の細胞を本格的に培養したことがないのでわからないが)。おかげで、どんな細胞培養も何とかなるだろうという自信はついたけれど。

2006/05/08/Mon.

新しいデジタルカメラが欲しい T です。こんばんは。

京極夏彦の「京極堂」シリーズにおいて、中禅寺秋彦と関口巽がともに結婚しているのは非常に重要な意味があると、第1作『姑獲鳥の夏』を読んだときから思っているのだが、理由を書くと長くなるので、また後日。急に思い出したのでメモしておく。

研究日記

大学 → 病院 → 大学。GW も終わって少し仕切り直し。連休の間に(いつの間にか)増えていた雑用を片付け、今後の研究計画を練る。実験はテクニシャン嬢 2人に任せ、黙々とパソコンに向かう。

良い身分だ、と思われそうだが、これは相当に大変で神経を使う仕事なのだ。彼女達のために実験を用意し、出てきたデータを整理する。多過ぎてもダメだし、少な過ぎてもイカン。難しいところはフォローせねばならず、かといってウザがられても困る。自分の実験もしないといけないし、というか、自分の実験をする時間をなかなか確保できないというのが実情。頼みの先生は今月末に日本を発つ。これからずっとこの状況が続くのか。まったくヘンなポジションに祭り上げられたものである。などと冗談めかして書いているが、事態は割と深刻。今月は第4週まで休日を確保できる見通しがない。同情するなら休みくれ。

夜はセミナー。カレーを食って帰宅。カレーを食い切れなかったので、体調に不安を覚える。さっさと寝る!

2006/05/07/Sun.

GW はよく遊んだ T です。こんばんは。

色霊

みだりに電車へ近寄らぬよう、ホームには黄色い線が引いてある。アナウンスでも、「電車が到着します。黄色い線までお下がり下さい」と注意を促している。この黄色い線を構成するタイルには、目の不自由な人のための丸いデコボコ(これは何という名称なのだろう)が付いてはいる。しかし「黄色い線」とアナウンスしたところで、彼らには色が判別できないのだから、まことに不親切といえよう。

信号機でもそうだ。「信号が青に変わりました」という音声が流れるものがあって、これもやはり色なのである。ピヨピヨとメロディの流れる信号機もあるが、あれで充分に安全といえるのだろうか。

なんてことを書くと、いかにも善人ぶった人間のようで、どうも俺の趣味ではない。「左利きの人間がフルコースの食事をする場合」の話を書いたこともあるが、要するに俺のしていることは他者への感情移入であり、これは、新しい視点の最も簡単な獲得方法の一つである。

今日の逸話などからは、例えば「色は意味を持つ」ということを再確認できる。言霊という単語があるが、「色霊」というものもあるのかもしれない。寒色系は男性のイメージ、暖色系は女性のイメージ、というのは全世界的な傾向であるように思われるが、だとすれば、これは生得的な美的感覚と関係があるのではないか。という具合にいくらでもつながっていく。

とまあ、そんなことを日記に書き溜めているわけだが、うまい利用方法が思い付かない。

研究日記

病院 → 大学。細胞を起こすなど、明日の実験の仕込み。雨の GW 最終日ということで、どこも人が少ない。

2006/05/04/Thu.

宇治に行ってきた T です。こんばんは。

宇治を訪ねるのは二回目である(一回目は去年の夏)。駅の周辺しか散策したことがないけれど、自然が豊富な落ち着いた街である。半分本気で住みたいと思う。職場へも充分通えるし。

平等院と宇治上神社

今回も平等院へ。前回は鳳凰堂が修復中で、いささか景観も損なわれ、何より内部の拝観が中止されていた。今日こそは、と意気込んでいたのだが、さすがゴールデンウィーク、人が多くて断念した。前回は夏休み中の土曜日というのにガラガラで、有名な割には混雑しないスポットなのではないか、と思っていたのだが甘かった。くそ。お前らは十円玉でも見てろ。

平等院を散策後、宇治川を渡って宇治上神社へ。学問の神様らしいので、研究がうまくいくようにと祈願。まさに神頼み。

宇治茶を飲んで市内に戻る。百貨店で花を束ねてもらってからバーへ。バーの(そしてマスターの)誕生日なのである。今夜は俺以外の客もたくさん入っており、ここ数ヶ月で見たことのない繁盛ぶりである。良かった良かった。マスターから、お返しにハンカチを貰う。高そうなブランドのやつで、嬉しい反面、儲かってないのに大丈夫なのかと不安になる。また飲みに行こう。

2006/05/03/Wed.

下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)神事を拝見してきた T です。こんばんは。

公家流鏑馬

午前中に京都駅。GW 初日とあって、あり得ないくらいに人がいる。それでも我が豪邸周辺は静かなものである。付近には下鴨神社の神事を告げるポスターがよく貼ってあるのだが、それによると、午後から流鏑馬神事を行うらしい。天気も良いので行ってみた。

下鴨神社流鏑馬神事

流鏑馬には公家流鏑馬と武家流鏑馬があるらしく、公家流鏑馬を行っているのは下鴨神社だけという。流鏑馬が武家の神社、例えば八幡神社などで奉納されるのはよくわかる。しかし、公家が流鏑馬とはこれ如何に。公家らが馬に乗って弓を引くというのは考えられない。何しろ、穢れを嫌うあまりに軍隊すら持たなかった彼らなのだ。

とはいっても、そのような公家像は、いわゆる平安貴族のものだ。下鴨神社の流鏑馬神事(当時は「騎射」と呼んだらしい)は、7世紀の文献から確認できるという。大化の改新が 645年であったことを思い出せば、天皇すら剣を手にして戦った豪族連合国家・大和を想像するのが正しい。要するに「公家」流鏑馬というネーミングの方に問題があるわけだ。

と勝手に納得している。

2006/05/02/Tue.

GW に更新しようかどうか迷っている T です。こんばんは。

というのはいささか大袈裟で、この日記は書きたいことを書きたいときに書きたいだけ書く、というスタンスでやっている。更新したければ更新する予定。

忙しい日や疲れているときほど更新意欲が高い。そのような日は自分自身の言動も多いわけだから、いわゆる日記的なネタもできやすい、ということが考えられる。しかしそれ以上に、奇妙なアイデアや着想を得る確率も高いような気がして、そちらの方が俺にとっては重要である。覚醒と覚醒の狭間の睡眠で夢を見るように、精神的肉体的な活動のレベルが高い時間にときおり訪れる短い空虚、そこに興味深いイメージがポカンと現れる。単なる現実逃避ではないか、という疑いもあるけれど、休日に本気で弛緩しているときには、そんな思い付きはなかなか得られない。熟睡しているときは夢を見ない、という事実に似ている。エネルギーを励起しておかないと、奥底の沈殿物は表層まで舞い上がってこないのだろう。

そういう意味で、俺は「勘」というものをある程度信じている。それは言語化されていない認識ではないのか(無意識ではない)。こんなことを書いたら怒られるかもしれないが、女性の勘が鋭い、という傾向にも頷ける。フォローしておくと、言語化は意識化の一手段である。言語化が特別に高尚なわけではない。言語に特権を認めることは、文学以外の芸術を否定することに等しい。言語化することによってこぼれ落ちてしまうものの何と多いことか。自分が日々、日記を書いて思うことである。言語化している、というのは傲慢ではないのか。言語化しないと認識できない、ということなのかもしれない。貧しい能力だ。言葉の森でうろうろとしている間に、勘は本質を鋭く突く。

研究日記

病院 → 大学。病院でウエスタン、データ解析。大学では細胞の免疫染色。ラーメンを食って 24時に帰宅。

2006/05/01/Mon.

帰りの電車の中で、しみじみとバカボンのパパについて考えた T です。こんばんは。

よくよく考えてみると、あれほど馬鹿馬鹿しい漫画は他にないのではないか。バカボンのパパとは何者だろう。息子が産まれるまで、彼は何と名乗っていたのだろうか。そもそも、自分の子供に「バカボン」と名付けるなんて、正気の沙汰ではない。役所もよく許したもんだ。

レレレのおじさんとは何者か。何かを暗示しているのだろうか。などと考えてはいけない。意味はないのだ。『天才バカボン』という物語は、あらゆる深読みを拒否する。はじめちゃんは天才児であるが、その設定が見事というほどに生かされていない。なぜバカボンのパパは大卒なのだろう。多分、意味はない。恐ろしい漫画だ。

この漫画がヒットしたことも、また不思議である。冷静に思い返してみよう。『天才バカボン』って面白いか? 多くの人同様、俺もまた(再放送ではあったが)毎週アニメを見ていた人間の一人である。何が楽しかったのだろうか。今になっては永遠の謎である。

研究日記

終日病院。ボス、先生とディスカッション。GW 明けにやらねばならぬことが、目の前でドンドンと積み上がっていく。ウエスタンをする。その他、Q-PCR や luciferase assay のデータ解析。どうにも結果が芳しくない。しかし、ここが踏ん張りどころ。とかいって、ずっと踏ん張ってる気がする。ズブズブと地盤沈下しているのではなかろうか。