- 妥協論

2006/04/14/Fri.妥協論

それでもできるだけ妥協はしたくないと思っている T です。こんばんは。

大体において思う通りにいかない、というのは大抵の人がそうであって、いうなれば、社会とは壮大な妥協の伽藍ではないか。今さら俺が知ったふうに語ることではないけれども、何というか、この認識がもたらすイメージが俺の中でゆるやかに変わりつつあるので、少し書いておこうと思う。

妥協というのはネガティブな意味で使われることが圧倒的だが、動物にはできない高等な知的行為でもある。妥協を知らない動物は、ゆえに命を落とすこともしばしばある。もっとも、妥協を許さない彼らの姿勢こそが、彼らをして現在まで生き永らしめた、という大きな側面も当然あるのだが。これをもう一度裏返せば、人間はそこまで苛烈な生き方をせずとも何とかなるシステムを作り上げた、ということになる。それが社会である、ということで話は冒頭に戻る。

人間はホモ・ポリティクス (Homo politicus; 政治人) である以前に、ホモ・コンプロミス (Homo compromis; 妥協人) ではないか。そもそも、政治とは妥協をルール化したものであるとすらいえる。極端な例を挙げれば、妥協によって起こる戦争もあり得る。断固として妥協しないために戦争が起こるのではなく、「こいつは叩きのめさないとわからないからしようがない」という妥協で始まる戦争もあるだろう。

妥協のない生き方が称賛されるのは、我々が妥協の海に住まっている証拠でもある。どこまでが妥協かというラインは、相当の部分を個人的な美学によって決められる。妥協するにせよしないにせよ、どちらもひどく人間臭い行いであることには変わりない。

自分でも何が書きたいのかわからなくなってきたので、このへんでやめておく。