- 実験動物の倫理問題 (2)

2005/11/30/Wed.実験動物の倫理問題 (2)

レベルの低い嘘が嫌いな T です。こんばんは。

昨日は「実験動物の倫理問題 (1)」と題し、動物実験を巡る奇妙な状況に対して、俺なりの考えを述べた。もうちょっと言いたいことがあるので、今日もそのことについて書く。

前回のまとめ

何のためのガイドライン

そもそも論から始めよう。

実験動物のガイドラインにおける最も奇妙な点は、その「目的」が明記されていないことにある。何のために実験動物を愛護するのか? この根本的な疑問に誰も答えられない。どころか、ほとんどの人が疑問にも思っていない (ように俺には見える)。

質問を変えよう。実験動物の愛護は良いことか? 俺を含め、ほとんど全ての人間が「Yes」と答えるだろう。それゆえに、指針がまとめられているのである。では、何が、なぜ、誰にとって、どんな風に「良い」のか?

ぶっちゃけていうと、「我々人間にとって良い」、少なくとも「それが良いと思っている人間がいるから」であって、決して動物のためではない。だから人間のエゴイズムなのだ。繰り返しになるが、そのエゴイズムを我々は否定できない。しかし認識することはできる。それを直視したくない人間が多いため、どうにもヘンな話になる。「見たくない」というのは、単なる責任放棄としか思えないがな。

自らのエゴを見よ

「社会」の問題に移る。人間のエゴイズムにも 2種類あって、それは個人のエゴイズムと、人間社会のエゴイズムである。「資源をじゃんじゃん使って楽に暮らしたい」というのが前者であり、「そうすると環境が破壊されて困るから辛抱するか」というのが後者である。

社会と社会のエゴイズムは衝突する。しかし衝突するばかりでも損をするだけなので、適度なところで双方が妥協し、お互いのエゴイズムを適度に満たす。これが契約であり外交である。これらは、相手のエゴが自分のエゴを犯すこと (あるいはその逆) によって発生する。したがって、相手に社会性がない場合、交渉の余地はないし、必要もない。少なくとも、近代以前はそう考えられていた。奴隷売買なんかはその極致だ。

社会生活を営む動物は、ヒトとハチとアリだけだという。ハチの巣を叩き落とすと、巣のハチが一斉に攻撃してくる。彼らに社会性があるゆえんである。そこで人間も、ハチの巣はみだりに襲わないという不可侵の協定を暗黙裏に守ることとなる。ハチの巣をどうにかしたいというエゴが、自分の生命の安全というエゴとぶつかり、後者が勝つからに他ならない。

で、だ。この「社会性のエゴイズム」は、人間と実験動物では成り立たないのである。彼らをどうしようと、人間が彼らの社会から被害を受けることは考えられない。もちろん、個人的なエゴイズムならば双方に存在する。殺される実験動物にとって、動物実験の倫理はまさに「他人事」では済まされない。だが、何度もいうように、それが彼らの「社会問題」になることは決してない。人間社会がガイドラインを作って対処するというのが、そもそも茶番なのである。

そう、茶番なのだ。もしも実験動物達がガイドラインを理解できたとして、彼らがそれを受諾するだろうか? するわけがない。麻酔をかけてくれてありがとう。ケッサクだな、おい。もちろん茶番に意味がないわけではない。我々は指針を手にすることによって、何となく安心する。ただ、ただそれだけのためのガイドラインなのである。

それが悪いことだとは思わない。実験動物には感謝もしているし、ガイドラインは遵守する。でも、それで「終わった」ことになってしまうのは、人間性の悪意ある部分に対しての欺瞞に過ぎない。そこがイヤなんだな。