- 閑話論

2005/11/17/Thu.閑話論

今週は週末に書き溜めた日記を平日に小分けにして出している T です。こんばんは。

平日は書くことも時間も気力もなく、その反動でやたらと週末の日記が長くなっていたが、何も書く日とエントリーする日が同じでなくとも良いのである。どうも日記を更新しないと落ち着いて眠れないのだが、これで苦悩の夜ともおさらば。

閑話と記憶

覚えなくても良いようなことに限って、強烈に頭に残ったりする。それが全く興味深くなかったりしても。記憶の不思議な一面である。覚えなければならない事柄が満載の教科書なのに、10年経って記憶に残っているのは、ページの埋め草に過ぎなかった囲み記事の内容だけ、という経験は誰にもあるのではないか。

明確な定義は難しいが、「閑話」というものは確かに存在する。小説のストーリーは忘れてしまったが、本筋に関係のないエピソードは覚えていたりする。これを「閑話作用」と呼ぼう。「閑話休題」という言葉もある。ヒドい小説だと、閑話の方が面白かったりする。「休題するな」と思うこともしばしばだが、やはり閑話は休題されるべきものである。否、休題することによって、閑話は閑話となる。

休題による閑話の成立は、閑話をして、首尾結構整った論理的整合性への欲求から自由にする。要するに、短くて尻切れトンボでも良い、ということだ。したがって、完成度の高い叙述に比べ、閑話は読者に批判と思考の機会を多く提供する。頭脳の行使は記憶の保持に直結する。これが閑話作用の原因ではないか。

閑話と体系

この日記は閑話の連続である。俺自身はそれに満足しているが、以前にも書いたように「それらを体系的にまとめることができないか」とも考えている。言うは易く、行うは難し。体系化とは、その典型例である。

ただ閑話を並べる、つなぎ合わせるだけでは「体系化」とはいえない。体系化には、一貫した整合性が求められる。一方、日々書き殴っている閑話は、最初からそのような姿勢を拒否している。これらをまとめ上げるくらいなら、一から書き直した方が恐らく早い。ロジカルな基盤を与える、といえば聞こえは良いが、体系化において作者が行っているのは、自己弁護であり、読者からの予防的防御である。それらが成ったときに現れる秩序は、それでまた美しく至便であるかもしれない。しかし、そのために必要な時間で、いったい幾つの閑話が書けるであろうかと考えると、本当に体系化が生産的な行為であるのか、という疑問もまた生まれる。

そもそも、全ての事柄が体系化可能であるとは限らない。「物理体系」はあり得ても、「文学体系」は多分無理であろう。もちろん、互いに撞着する要素を抱えた体系も存在する。だが、その事実を説明するには相当の労力がいる。それなら、矛盾したまま独立した閑話として提供する、というのも一策ではある。言い訳がましい論理への執着を読むのに飽きた読者が本を投げ捨てるくらいなら、ポンポンと閑話を並べておく方が、よほど気が利いている。

文章は、読まれなければ意味がない。これは、俺が文章を書く上で最も根底に置いている考えでもある。そして「読みやすさ」という点において、閑話ほど優れた形式はないんじゃないか。閑話万歳。