- カエサルと俺

2005/11/12/Sat.カエサルと俺

水槽にカビが生えていたインキュベーターで細胞を培養していた T です。こんばんは。

今日も仕事。被害が出る前に、インキュベーターを大慌てで消毒し、滅菌をかける。犯人探しをしてもせんないことだし(自分が犯人かもしれないのだ)、気付いた人間がやるべきことではあるのだが、休日であるゆえに、「何で俺が余分な仕事を」という気持ちがどうにもぬぐえない。修業が足りんな。

ベンチを贅沢に使ってさっさと実験を終わらせる。

カエサルの文章

先日からユリウス・カエサルに関する本を少しずつ読んでいる。といっても、塩野七生『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前』および『ルビコン以後』の再読なのだが。本当はカエサル自身の筆による『ガリア戦記』も読みたいけれど、『ガリア戦記』となると大きめの本屋に行かねばならず、いまだ果たしていない。Amazon で買おうかとも思ったが、家にいる日がないので何の意味もない。二度手間だ。

などと忙しさを愚痴っている自分が恥ずかしくなるのだ、カエサルについて読んでいると。彼の文章の第一の特徴は、徹底した客観性にある。ガリア戦役は彼自身の戦争であり、それについて彼自身が書いている。なのに、その文章が非常に客観的であるため、「カエサルは自己の困難や多忙について無関心である」という印象を読者に与える。格好良いんだな、これが。彼が本当に無関心であったかどうかはわからないし、その効果が意図したものであったかどうかも、俺は知らない。そこがまた実に良い。

我が文章

そこで自分の日記を顧みる。俺も文章に興味があり、日記を書く上で幾つかの制約を設けている。その中の一つに、「虚偽は書かない」という条項がある。やってみればわかるが、厳密に適用しようとすると、これは結構難しい。この日記は報告書ではない。私的な文章であるから、都合の悪いことや書きたくないことは書かない。そうすることで制約の遵守を保っている。「嘘を書いてしまえば簡単なんだがなあ」と思うことも、ままある。禁じているのは、2つの理由による。1つは、日記の「記録」としての信頼性を重視しているため。1つは、嘘をつき通すのは非常に難しいため。嘘がバレてかく恥ほどつまらないものはない。

自分の主張を他人に押し付けるつもりはない。ネット上で、架空の人格を装う楽しみがあることも理解している。その技術がある水準を上回れば、それは「演技」となり、立派な「エンターテイメント」になることもわかっている。実際に、そのような練達の web ページは非常に愉快だ。

逆にいうと、文章というものは、よほどの力量がないと、書いた人の人格をあからさまに反映してしまうという性質を持つ(その反映を読み取るにはまた、読む技術も必要であるが)。ここが面白いところであり、怖いところでもある。「文は人なり」という成句もある。

というわけで、明日は自分の文章を簡単に分析してみることにする。