早めに仕事が終わったので「旨いものでも食いにいくか」と意気込みつつ電車に乗った途端、あり得ないほど眠いことに気付いた T です。こんばんは。
結局、飯は適当に済ませた。眠気を感じないのは気合いが入っている証拠だ、という好意的な受け取り方もできるが、眠いなら眠い、痛いなら痛いと感じてくれねば、生物として困る。不快な感覚を遮断する脳内麻薬が存在することは事実だけれど、それは逃避的な防衛機構であり、やはり通常の反応ではない。
ま、エラそうに書くほど働いているわけでもないんだが。忙しい、疲れた、などと自慢気にする人間は好きではない。黙って倒れる。コレ最強。
寝る!
「安易にカタカナ語を使うのはいかがなものか」という主張をしている俺だが、何が何でも日本語を使わなければならんと考えているわけではない。同じモノを指す日本語と外来語でも、そこから受ける「印象」が違ってくるケースは多々ある。というか、外来語を用いる意図の大半はその点に集中している。言葉から受ける印象を、その言葉の「意味」と捉えるのは拡大解釈かもしれないが、全く同一の言葉として扱い切れない場合も実際にある。例えば、次のような例文はどうだろう。
- キャンドル・ライトの下でディナー。
- 蝋燭の灯の下で夕食。
これを同意の文章として読めるかどうか。否、であろう。我々は明らかに「蝋燭」と「キャンドル」を区別している。結婚披露宴で行われるのはあくまで「キャンドル・サービス」であり、「蝋燭奉仕」ではない (それではまるで何かのプレイである)。
と書いて気付いたのだが、どちらも同じ「play」であるにも関わらず、「プレー」と「プレイ」も区別されるよなあ。「野球のプレー」と「アブノーマルなプレイ」、引っ繰り返して使うことは少ない。つまり、言葉から受ける印象の差異は、それが日本語であるか外国語であるかという分類に留まらず、全く同じ言葉をどう表記するかというレベルから発生し得るわけだ。何か問題が大きくなったなあ。
難し過ぎるぞ、日本語。