- カタカナ語は難しい

2005/08/01/Mon.カタカナ語は難しい

できるだけカタカナ語を使わないようにしている T です。こんばんは。

カタカナ語(外国語の音訳)を使いたくない理由は色々ある。主に信条の問題なのだが、それはあくまで俺の主観であるから、論じたところで大した意味はない。なので、文章技術の問題に限定して考察する。

カタカナ語の問題

ほとんど唯一といえる問題は、外国語の発音をカタカナで正確に表記することは不可能、という点にある。例えば、「entertainment」をどう表記するか。

「エンターテイメント」 : 1,620,000件 (44%)
「エンターテインメント」: 2,030,000件 (56%)

上記は、「エンターテイメント」および「エンターテインメント」の、本日現在における Google での検索結果である。あなたが「entertainment」に関する日本語の情報を調べようとしたとき、「エンターテイメント」(あるいは「エンターテインメント」)と入力した時点で、およそ半分の情報は検索対象から外れる。

「エンターテインメント」という表記が普及したのは最近である。昔は「エンターテイメント」が優勢であった。日本語の発音として自然だからだろう。「テインメント」の勃興は、「tain」の発音を正確に表そうという意志の結果と思われる。しかし、「mail」はいつまで経っても「メール」で、決して「メイル」にはならない。逆に、「entertainment」が「エンターテーメント」と書かれることは稀である。同じ「ei」の発音なのに、全く一貫性がない。

大袈裟にいうならば、カタカナ語を使う限り、「entertainment」情報を発信する日本人の労力の半分は無駄になる。「外来語を使わずに日本語を使いましょう」という主張は、単なる保守主義ではない。情報資産の価値を高めるために必要な行為である。その意味で、かたくなに自国語を守り続けるフランス人は立派である。明治人もそのことをよく認識していた。彼らは翻訳に熱心であり、適切な訳語がない場合は、必ず原語のまま書き記した(芥川の小説が良い例だろう)。それは単純な知的虚栄心の産物ではない。「いずれ適当な訳語が現れるはず」という、自国の文化に対する鷹揚な自信の現れではないか。

サジ加減

上述したのは非常に極端な例である。カタカナ語を絶対に使うな、と主張したいわけではない。それは不可能だ。先に述べた「メール」という言葉にしたところで、他に書きようがない。どこまで外来語を使うかが問題の本質で、そのサジ加減が難しい。書く人のセンスという、漠然とした結論になってしまいそうである。しかしたまには、カタカナ語で書き流す前に辞書を引いてみるってのも良いんじゃないかな。