- 心の中の日本地図

2005/06/12/Sun.心の中の日本地図

生まれて初めて定期券を買った T です。こんばんは。

さっき(22時過ぎ)コンビニに行こうとしたところ、提灯を持った 30人あまりの坊主がゾロゾロと向かってきたので驚いた。何なんだ。

坊主で思い出したが、比叡山延暦寺は滋賀県にある、ということを引っ越してきてから知った。疑いもなく京都府だと信じていたので、無意味にショックを受けた記憶がある。甲子園球場の所在地は大阪府ではなく兵庫県である、と初めて知った人間のようなものか。

日本人が描く世界地図では、必ず日本列島が巨大化する。誰しもが心の中に自分だけの主観的な地図を持っていて、そこでは縮尺も所在地も自由に変動する。

児童画には、その傾向が最も顕著に現れる。来週末は父の日だが、駅の構内などに幼稚園児の描いた父親の肖像画が掲示されていて、これが非常に興味深い。彼らの描く父親は顔が異様に大きく、かたや身体は、せいぜい 1色に塗りつぶされたシャツらしきものをまとっているだけである。このことから、彼らが顔によって父親を認識しており、我々大人ほどには服装に気を留めていないことがわかる。描かれる顔も面白いもので、ある父親は巨大な眼鏡を顔面に嵌め込まれ、ある父親はあり得ないほどのヒゲを蓄えている。「写生画」という概念すら持たない園児は、インプットに比例したアウトプットをしているだけである。そこでは、印象の強いイメージが大きく描かれる。児童画のデッサンが狂っているのは、彼らの写生技術が未熟だからではなく、本当に「絵に描いたそのまま」を「父親」として認識しているから、という可能性は大いにあると思う。教養ある大人が描く世界地図でも、日本列島はいつも大きくなるのだ。「そのように」認識しているのだからしょうがない。

自分が他人にどのように見られているのかを知りたければ、子供に絵を描いてもらうのが一番かもしれない。「王様は裸だ」と言えるのは子供だけだからなあ。