- 鮎の串焼き

2005/02/27/Sun.鮎の串焼き

夢見がちな T です。こんばんは。

夢日記

面白い夢を見たので記録しておく。夢のことゆえ、前後に脈絡のない部分もあるが、見たままを書いている。

俺は CM に出演することになった。その撮影のためなのか、それとも出演を祝してなのか、ある男と飯を食いに行った。夢の中でどこかに連れていってくれたり、何かを教えてくれたりする人というのは、大抵は俺が理想とする年上の人間のイメージであることが多い。多分、彼もそんな一人だ。

で、飯を食いに行くというのに、何故か原生林の山の中を歩いている。道などない。それなりの高度があるせいか、密集した植物群があるわけではなく、足下にゴツゴツとした岩が転がっている処女林である。日差しは木々に遮られ、あたりは薄暗いが、まばらに木漏れ日の差している部分は明るい。川、というにはあまりに小さな水の流れに沿って、どんどんと奥に分け入っていく。水源が近いらしく、水は澄んでいる。水流にはところどころ淵のようなものもできているが、まだまだ「ただ低い部分を水が這っているだけ」というような状況だ。靴が濡れないように注意して歩くすぐそばを、小さな魚が泳いでいく。

木々が開けた場所に出た。柔らかな光線が周囲を照らし出し、水溜まりの親分程度には発達した池の水面を輝かせている。小池には、桟橋か縁側のような小さな木造の足場が突き出しており、奥の廊下へと続いていく。その先には小さな建物があった。「ここだ」と男は言い、俺を振り返ってニヤリと笑った。こういう場所を知っており、かつ、俺がこんなシチュエーションを好むことまで知っているということは、恐らく彼はボーイスカウトの先輩なのだろうと(夢の中で)分析しそうになる。しかし、そんな詮索をしていたら覚醒してしまうと(夢の中でも)経験的にわかっている俺は、黙って彼の後をついていった。今、目が覚めてしまうのはもったいない。

桟橋に上がり、靴を脱いで廊下を渡ると、小さな玄関のような空間に出た。床はなく、剥き出しの土の上に、時代劇の茶屋で見られるような腰かけが設けられている(当然、座面は紅の敷布である)。「お客さんを連れてきたよ」と男が声を出すと、年齢不詳の、割烹着に身を包んだ和風美人が現れた。「いらっしゃい」「お願いするよ」「ちょっと待っててね」などという短いやりとりの後、女は奥へと去っていった。俺達は腰を下ろして待つことにする。何を食わせてくれるのだろうか。そもそも、ここは店なのか。こんな辺鄙なところで、商売が成立するのか。ということは、この男のような固定客が何人もついているに違いない。きっと旨いものが出てくるのだろう。いや、旨いに違いない。絶対に旨い。男が黙ったままなのがその証拠だ。どれだけ旨いのだろうか。的確な味覚の想像ほど困難なことはない。妄想が妄想を呼び、きっと三千世界に存在するとは思えぬほどの美味が堪能できるはずだと勝手に確信した俺は、興奮のあまり「アー」などと口走る。

しばらくして、女が盆を持って再び現れた。差し出された長方形の和食器には、見事に焼かれた鮎が1尾。串刺しにされた鮎を手に取ると、女がかぼすを搾り、大粒の結晶塩を振りまいてくれる。「召し上がれ」という女の言葉を合図に、俺達は鮎をむさぼり食った。筆舌に尽くし難いので、味の描写はしない。俺は非常に満足した。食い終わった頃を見計らい、口直しの日本酒が猪口で出てくる。たった1杯だが、もはや幸福感で俺は酩酊状態である。女が猪口を下げた後、俺達は無言で一服した。煙草を吸い終わったとき、またもや絶妙なタイミングで仕上げの味噌汁が出てくる。熱い味噌汁をすすり、俺達は店を辞去したのであった。

山を下りているうちに、いつしか目覚めていた。夢は自分でもままならぬものだが、いつかまた、あの店に訪れたいものである。

自己診断

この手のパターンの夢を俺はよく見る。「年上の人間から素晴らしいものを授かる」というのが基本形。「素晴らしいもの」というのは、今回の飯みたく即物的なものから、知識や助言といった抽象的な事柄、あるいはエロティックなものである場合もある。俺の年上嗜好、プチ・ユートピア嗜好をよく顕していると思う。

「プチ・ユートピア嗜好」というのは俺が勝手に書いている言葉だが、要するに「この世のどこかに尋常ならざる XX が存在するはずだ」という妄想である。XX が指す範囲は非常に狭い(だから「プチ」なのだ)。今回の「飯屋」がそうだし、あるいは「信じられないほど頭のキレる人間が集まって、日々、巨大な成果を出し続けているラボ」とか、「世界史がひっくり返るような古文書を何十代にも渡って伝世し続けている家」とか、そういったものである。そんなものが「あると良いなあ」と思っている人は多いと思う。しかし俺は「あるはずだ」と(半ば無理矢理に)信じ込んでいるフシがあって、そのあたりが夢に出てきやすい原因なのかもしれない。もちろん、100% 本気で信じているわけではないのだが、それでも普通の人より願望が強いのではないか。良く言えば世界に肯定的、悪く言えばそれこそ夢見がちなのだが。

ユートピアに誘ってくれる者を、精神分析や夢判断では「賢者」とラベルする。俺の場合、その「賢者」の役割を「年上の人間」が演じることが多い。「年上」といっても、父親以上に歳の離れた人間はほとんど出てこない。むしろ俺に近い年代ばかりである。平たく言えば「兄・姉」の代償であって、現実に兄姉を持たぬ俺にとっては、彼らもまたユートピアの対象なのだ。

俺は実年齢よりも上に見られることが多々あるが、それは兄・姉を憧れるあまりに、彼らの所作を無意識に真似ているからではないか(と自分では思うのだが本当かどうかわからない)。ひょっとしたら、5年後の自分というのは、俺にとって良い兄貴なのかもしれない。それはそれで気持ち悪い話だけれど。まァそういうわけで、「兄貴的」なものを吸収しながら生きている俺ではあるが、深層心理では「弟として甘えたい」という願望が強く、なかなかに分裂した意識を抱えたまま暮らしている。その願望が炸裂するのが夢の中というわけだ。

「夢日記」を書く効能は色んな書物で説かれている。俺もそれに倣い、これまで何度か夢の話を書いたことがあるけれど、あまりにも「甘えん坊」である夢が多くて、結局、実際に書くのは当たり障りのない夢がほとんどである。恥ずかしくて書けるか、自分が甘えている夢なんて。今回の夢では、極めてストレートに願望が出ている割に、俺の醜態が少なかったので書いてみた。ついでに俺個人の夢の傾向まで述べてしまったので、かなり長くなってしまったが。一度こんなことを書いたからには、今度は少々恥ずかしい夢の話でも紹介してみようかと考えている。