- 播州男児ここにあり

2005/01/02/Sun.播州男児ここにあり

日本の男性の理想像……にはほど遠い T です。こんばんは。

初詣で

大晦日の夜は一人で酒を飲みながら、去年の日記を読み返したりしつつ、静かに過ごした。新年を迎えて風呂に入った後、初詣でへ。雪は止んでいたが、溶けた水が凍結し、道はツルツルと滑る。あんまり寒いので、近所のお稲荷様でお茶を濁すことにした。果たして稲荷大明神が、正月に参る神様として適当なものなのか判断がつきかねたが、ナニ、参らぬよりは良かろうと思い直して参拝する。

この稲荷神社は地元で祀られているもので、神社とも言えないくらいの小さな規模である。鳥居と百葉箱ほどの大きさのお社があるだけだ。小銭を賽銭箱に投げ入れたが、鈴もない。二礼二拍手一礼……で良いのかなあ、と悩みつつ、とりあえず祈願した。

信仰と形式は、常に微妙な関係にある。フォーマット通りに行うことが、すなわち深い信仰を示すとは限らない。しかし、ある行為が「型」として形式化されたのには、必然性もあるはずなのだ。それをないがしろにしていては、信仰を軽んじていることの裏返しになったりもする。なかなか難しい。

我は播州男児

さて、心身を改めたところで今年の目標を定めようかと考えたが、まだ春からの身の振り方が決まっていないので、予定もクソも立てられたものではない。1年を見通そうとしても、すぐに先が見通せない壁にブチ当たる。もうこれは、1日 1日をしのいでいくしかない。とはいえ、それも盲目的だなあ。単なる思考停止ではないのか。とまれ、いくら卓上の人生ゲームで難儀な局面を迎えていたとしても、テーブルから離れることは許されない。

……とまあ、正月から辛気臭いことばかり考えているのだが、司馬遼太郎の『播州人』という短いエッセイには励まされた。

播州出身の英雄豪傑を思いつくままにあげると、別所長治、黒田如水、後藤又兵衛、母里太兵衛、宮本武蔵、大石内蔵助ほか赤穂浪士、といったぐあいで、極端にいえば、かれら播州人が、日本の男性の理想像を作ってきたようなものであった。

うほっ、てなもんである。かくいう俺も播州男児なのだ。上で述べられた男達については、よく知っている。彼らがどういう人物であったかを書いてみよう。

別所長治(べっしょ・ながはる)
1558〜1580年。室町時代、播磨で権勢を誇り、時の将軍足利義教を暗殺(嘉吉の乱)までした赤松氏の一族。戦国時代を遠因となった張本人の子孫である。戦国時代には、三木城(兵庫県三木市)を中心に東播磨に勢力を拡大。信長が中国遠征を始める前、すでに羽柴秀吉を通じて帰順の意志を示していたが、名門の誇りと長治自身の潔癖症的性格から、信長・秀吉を信用できず、兵を交えることになる。2年に及んだ三木城の籠城戦では、秀吉の兵糧作戦が功を奏し、長治は自身の命を引き換えに、将兵の助命を嘆願することになる。備中高松城の清水宗治に事情が似ているが、もちろん秀吉の備中攻めは、これよりも後のことである。長治の意見は受諾され、彼は切腹、三木城は開城した。誇り高い男であった。
黒田如水(くろだ・じょすい)
1546〜1604。勘兵衛孝高。洗礼名はシメオン。筑前黒田藩の開祖として名高いが、播磨は姫路の人である。父・職高は小寺家(これも赤松氏の一族)に仕え、親子2代で家老を務めることになる。秀吉の中国進出の際、主家を説き伏せて織田家と結ばせる。この頃から秀吉と通じ、姫路城を提供。主君・小寺政職は織田家を裏切ったが、このとき勘兵衛は秀吉の家臣となる。秀吉の参謀として「二兵衛」と並び称された竹中半兵衛重治と黒田勘兵衛孝高だが、清廉短命で諸葛孔明的イメージのある半兵衛と違い、どうしても勘兵衛は「策士」の印象が強い。しかしそれは彼の一面でしかなく、気骨のある人でもあった。摂津伊丹で荒木村重が信長に反旗を翻したとき、同じ切支丹であり茶人でもあった勘兵衛が説得に向かった。しかし村重は勘兵衛を牢に捕らえ、彼との共闘を持ちかけたが、勘兵衛は首を縦に振らなかった。10ヶ月後に救出されたが、長い牢獄生活で片足が不自由となる。いたわる秀吉に対し、彼は村重説得の失敗を詫びたという。1582年、備中高松城で毛利軍と対陣中、本能寺の変の報が秀吉、勘兵衛に届く。一説では、呆然とした秀吉を勘兵衛が焚き付け、「天下取りに千載一遇の機会」と諭したとされる。秀吉が天下を平定後、巨大な軍功に比しては過小ともいえる、豊前中津川12万石を与えられた。秀吉が勘兵衛の才能を恐れたゆえの措置ともいわれる。これを察した勘兵衛は、隠居して息子・長政に家督を譲った。関ヶ原でも自分は九州に留守居し、長政を東軍として派遣。しかしそれで終わらないのが勘兵衛である。関ヶ原の合戦が長引くと予想した彼は、軍勢を率いて真空地帯の九州を席巻、天下取りの野望をあらわにする。ところが皮肉にも、長政らの活躍により関ヶ原の戦いは1日で終結。意気揚々と帰城した息子を、勘兵衛は「大馬鹿者」と叱り飛ばしたという。何とも不敵な男であった。
後藤又兵衛(ごとう・またべえ)
1558〜1615。基次。黒田勘兵衛に養育され、長政の代には黒田二十四騎に数えられる。朝鮮出兵、関ヶ原で大功があり、長政から1万2千石という大名並の俸禄を得る。しかし後に長政と対立し、出奔。後年、浪人として大坂冬の陣で豊臣側に参陣、五人衆の一となる。夏の陣では真田幸村らと共に奮戦。が、又兵衛は道明寺に突出してしまい、少数の手勢で大軍を相手に孤軍奮戦したが、衆寡敵せず討ち死に。根っからの武人であった。
母里太兵衛(もり・たへえ)
1556〜1615。友信。黒田勘兵衛に仕え、各地を転戦。6千石の録を得る。長政の代には、後藤又兵衛とともに黒田二十四騎に数えられる。彼の豪勇は諸大名にも知れ渡り、福島正則からは名槍・日本号(元は秀吉が正則に与えたもの)を贈られた。このとき、正則から巨大な杯に酒をなみなみと注がれ、「これを飲み干せば日本号をやろう」と言われた太兵衛が、衆目の中で一気に呑み干したという伝説がある。これは創作らしいのだが、この逸話は広く知られるところとなり、筑前黒田藩に伝わる黒田節を産んだという(酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を 飲み取るほどに 飲むならば これぞまことの黒田武士)。豪快な男であった。

宮本武蔵と赤穂浪士は説明不要だろう。ところで、上で述べた彼らが「日本の男性の理想像」かどうかは、また紛糾しそうな問題である。確かに素晴らしい男達だが、薩摩隼人や三河武士、坂東武者もまたそうである。しかし、同郷の俺が密かに誇るくらいは許されるだろう。

播磨という土地は、実に面白い。「播磨風土記」が現存し、伝説・伝承も豊富である。古来から地味豊かで、交通の要所でもあった。だが何故か、これまで一度も日本の中心となったことがない。その点、尾張に似ている(尾張が開けたのはかなり後世だが)。一度だけ、播磨が本朝のヘソとなった時期があった。平清盛による福原遷都である。この時期、確実に御座は播磨にあった。が、光秀の三日天下のようなもので、歴史的実体はない。

俺が播磨人であると書いたのは、今日が初めてのはずである。またいずれ、播磨について詳しく書いてみたい。

読書日記

筒井康隆『文学外への飛翔』を読了。演劇青年でもあった筒井康隆。俳優としての彼は、テレビ、映画、芝居などで知られている。特に断筆宣言中の筒井は、精力的に俳優活動を行った。本書はその頃に書かれた日記やエッセイをまとめたもの。脚本や原作を文学者として解釈しつつ、それを演技者としてどう生かすかなど、普段目にすることのないアプローチが面白い。また、観賞側に回ったときのテキストもあり、批評家・筒井康隆にも出会うことができる。

研究日記

吉野家で朝食を摂ってからラボへ。さっさと実験を終わらせ、夕方には帰宅。今日は簡単なサンプル処理だけで、蛍光顕微鏡による観察は明日行う。サンプルが 10種類もあり、検鏡に何時間かかるかを考えるとゲンナリする。が、年末はよく遊んだので、せいぜい年始は働くつもり。