- Like A Rolling Stone

2004/12/22/Wed.Like A Rolling Stone

餃子20個を肴に発泡酒を飲んだら気分が悪くなった T です。こんばんは。

研究日記

ラボの大掃除。終了後、レポートを作成。修士論文のアウトラインを書けということなのだが、それは何のため? この夏、投稿論文を書き上げて K先生に提出したのだが、いまだに放置され続けている。そんなに修士論文の中身が知りたかったら、さっさと投稿論文を読めば良かろう。こんなことで……、おっと。ムニャムニャ。

就職活動日記

昨日届いた、気になる公募の審査結果は合格であった。これはまだ書類審査の段階で、年明けに面接を受けねばならない。これをパスすると採用される。この面接がまた曲者っぽい。日程の案内を見る限り、受験者一人に与えられる時間は、研究概要・志望動機の発表が 5分、質疑応答が 7分。短い。5分で何が話せるんだろう。この 1年間でいくつも面接を受けたが、合計 12分というのは最短である。

しかしまァ、受けるからには真面目に準備をしなければならない。発表時間が短いほど、用意するべき事柄が増える。後から挽回できないため、その場でズバリ的確に応答する必要があるからだ。どこに転ぶかはまだまだわからないが、もう少し転がり続けてみるか。

着想の獲得

……と、ここまで書いてアップしようとしたのだが、どうにも FTP サーバにつながらない。なので、もう少し書いて時間を潰すことにする。

先週、先々週の学会には電車で通っていたのだが、電車の中というのは大層ヒマである。俺は今まで電車やバスに乗って通学した経験がないので、乗物の中で時間を潰すノウハウに疎い。本でも読めば良いのだろうが、窓からの景色を眺めているだけで飽きないので、大抵はボーッとしている。たとえボンヤリしていても、頭というものは活動を止めることはないので、時折、フッと奇妙なことを思い付いたりする。それがまた楽しい。

こういう変な着想は、後から思い出して再現するのが難しい。意識が明晰でないときに浮かぶアイデアは、起きながらにして見る夢のようなものだ。こういう断片的なイメージが創作には重要であると、筒井康隆は『着想の技術』で論じている。俺もそれに倣い、下らない思い付きは、なるべく書き留めるようにしている。このことは以前の日記にも書いた。

さて、どれくらい下らないかと言えば、これはもう、どうしようもないくらいに下らない。実際に俺の頭に浮かんできた断片というのは、例えば次のようなものである。

「神狂鐘(ジングルベル)」「年中無給」「悠久休暇」

ホントにバカバカしい限りである。恐らく車内の吊り広告から、無意識にインスパイアされたものだろう、ということも容易に想像がつく。このような、イメージの源泉が簡単に突き止められるような断片は、総じて面白みがない。どうしてそんなことを考えたのだろうか、というふうなフラグメントの方が、断然スゴ味がある。しかしそんなアイデアが出てくるのは、数十回に一度くらいのものだ。しかもそんなときに限って、メモを持ち合わせていない場合が多い。着想は鮮度が命であるから、これは致命的である。

着想の点検

運良く優れたイメージが得られたとしよう。重要なのは、時間を置いてから、もう一度そのイメージを味わうことである。奇妙なフラグメントというのは、意識の検閲が緩んだ隙を突いて浮かび上がってきたものであると考えられる。逆に言うと、検閲が機能しているとき、つまり意識が明瞭なときには、いくら考えても出てこない発想なのである。これは貴重だ。であるから、無意識の産物を意識的に点検するということは、是非ともやっておきたい。そこからまた、新しい何かが得られる(かもしれない)。

言葉で書くと何やら複雑であるが、大して難しいことではない。誰でも、変な考えがフト浮かぶことはあるだろう。大抵は、それをつまらないものとして忘却の彼方に追いやってしまうが、そうせずに、少し頭を使ってみようというだけの話である。俺自身、このような方法で得たアイデアを元に日記を書くことも少なくない。当たりを引き当てる確率は高くないが、やってみる価値はある。