- 言説を自動化する仕組み (2)

2004/10/27/Wed.言説を自動化する仕組み (2)

USB すら付いていないラボのマシンにウンザリの T です。こんばんは。

自動化される表現

昨日の続き。とりあえず前回の要約。

自動化された表現で、本当に自分の言いたいことが表すことができるだろうか。考えてみる価値はある。政治家が言うところの「遺憾である」みたいなもんで、いくら「自分の言葉」として体得したものでも、ときに「自らの言葉」にはなり得ない場合もあるんじゃねえの?

今日は、言説の自動化を促す外的要因の話。

言説の自動化を促す外的要因

「自動化」というほどのものではないが、それでも外的要因によって、言説がある圧力を受ける場合がある。というか、それが「言説」である以上、自らが展開される枠組みの影響を必ず受ける。受けざるを得ない。

この日記が日本語で書かれている以上、日本語にない概念を正確には記述できない。そういう問題がある。そこまで話題を大きくしなくとも、例えば今日の曜日は「Wed.」と書いてあるが、これは HTML での縦書きが不可能だからこそ現れる選択肢であって、縦書きで日記を書いていたならば(俺としては)絶対にあり得ない表記である。

そんなの、ただの表記の揺れではないかと思われるかもしれないが、言葉の組み合わせが表現の基本であるということは前回にも書いた。自動化とまでは行かずとも、「HTML で記述する」と決めた瞬間に封殺された表現、新たに選択肢に入った表記があるはずなのである。これが「外的要因による圧力」だ。

もっとも、この「圧力」それ自体に善悪はない。肝心なのは、圧力を受け止める側が、それをどう処理するのかという点である。京極夏彦は、自分の小説が判型を変えて再出版されるとき、そのフォーマットに応じて、センテンスで構成される作品の「外観」を整えるという。圧力を上手く受け流し、そればかりでなく、自分の力として利用しているわけだ。

自分のサイトのフォーマットは自分で決めることができる。京極夏彦よりも、もっと自由に振る舞えるはずなのだ。俺はある時期から、日記に小見出しや注釈を入れるようにした。これによって、以前よりもずっと、色々なことが書きやすくなったように思う。書きたいことに詰まったとき、表現を検討するのは最も基本的で大切なことではあるが、ひょっとすると、その言説が展開されている「場」にこそ問題があるのかもしれない。もしも「場」の変更が可能であるならば、外的要因を取り除く努力は行うべきだ。

就職活動日記

明日の午後、気になる公募の採用先となる(かもしれない)ラボで、自分の研究をプレゼンテーションする予定。激しく不安。先方のM先生に研究概要をお見せしたところ、研究自体には興味を持って頂けたようだが、それと採用とは関係ないしなあ。というのもこの公募、応募のあった研究室の先生方は、一切審査に関わらないらしいのだ。変なコネが働く余地がないのは結構なことだが、落ちた場合、それは完全に己の実力不足ということにもなる。厳しい。