- 自己満足論

2004/09/26/Sun.自己満足論

前頭葉が痛くなるまで寝た T です。こんばんは。

形があるばかりで内実が伴っていないと、当然のことながら中身は空っぽであり、しばしばそれは檻へと変容する。窮屈に感じるくらいなら、いっそのことやめたほうが良い。

サイト日記

毎日毎日こんな日記を書いて、いったい何の意味があるんだろうな、と考えることがある。帰宅し、文章を書くために心を落ち着かせ、ゆっくりと1日を振り返る時間を持つということ自体は、決して悪い習慣ではない。しかしそれだけならば、書いたものをハードディスクに保存するだけで事足りる。わざわざネット上にアップロードする必要はない。

「自己満足」と言ってしまえば話は早いが、「早い話」というものは実に大切なことが抜け落ちやすい。というわけで、少し「自己満足」について考えてみよう。

二つの「自己満足」

俺は自己満足を全否定はしない。が、「自己満足」と一括りで表される満足には、幾つかのタイプがあるんじゃないかと思う。ここで俺が肯定しているのは、「満足」を得るのに他者を必要としない、いわば「自己完結する満足」という意味での「自己満足」だ。他人に迷惑をかけなければ、自己完結型の満足というものは、その人の精神の安定や充足に大きな貢献があるだろうという点を、積極的に評価できる。

一方で、普通「自己満足」という言葉は、嫌悪するべきネガティブな意味を持つ単語として認識されている。この場合の「自己満足」は、もちろん「自己完結する満足」ではない。それを俺は、「自己中心的な満足」と定義したい。自己完結型との相違は一つ、「満足」を得るのに他者を要求する点にある。

そもそも、「満足」という感情が発生するには他者の評価が必要である。ではなぜ「自己満足」という言葉が生まれたのかを考えるに、そこに本末転倒した因果関係があるからではないかと思われる。「他者の評価によって満足する」のが一般的な「満足」だとすれば、「自己中心的な満足」は「満足するために他者の評価を要求する」のである。しかも要求される「他者の評価」は、第三者的あるいは客観的なものではない。あくまで自分が満足を得るために必要なものであるから、その評価の視点は、「自己満足」を得る人に立脚しなければならない。つまりは一人称なわけだ。そこが「自己中心的」たるゆえんではないか。

自己満足と他者

さて、こう書くと「自己完結する満足」が「善」で、「自己中心的な満足」は「悪」であるという印象を持ちがちだが、そんな単純な結論を下すようでは思考の放棄である。頭はもっと使いたい。そのために、二つの例を挙げる。

先日、制服マニアの男が逮捕された。鉄道会社や航空会社に侵入し、自分の欲しい制服を盗んでいたという。その数、実に 1万着以上。盗んだ制服は自宅に保管し、眺めたり着用したりして楽しんでいたらしい。恐らく、彼が得ていた満足は「自己完結する満足」である。誰かに「凄い数の制服だな」とか「その制服、似合っているよ」などと言われなくとも、彼は満足していたと思う。他者の評価がいらなかったわけだ。しかし、「自己完結する満足」を得るための条件は、犯罪によって整えられていたという話。

「自己中心的な満足」の例は、日常生活で枚挙にいとまがない。代表的なのは「猿山の大将に対する世辞」だろう。大将を自己満足させるため、露ほども思っていない追従をしたことは、誰にでも経験があると思う。だが、それによって我々は、大将からの保護なり恩恵なりを受けることもしばしばで、言うなればギブ・アンド・テイクの関係でもある。

「満足」における他者の評価は重要な問題だが、他者が関わってくるのは評価の場面だけではない。まあ、これは自己満足に限った話ではないのだが。満足を得るのは難しいが、それも当然と思えてくる。