- 美しい日本の私

2004/03/28/Sun.美しい日本の私

郷土自慢をさせるとウザいくらいに語り続ける T です。こんばんは。

朝晩はまだ肌寒かったりするが、それでもここ数日、昼間は非常に暖かい。それで、今日はツーリングにでも行こうかと思ったのだが、バイクに乗るにはあまりにも上腕二頭筋が痛いので断念した。今では当然のことのようになってしまったけれど、それでも筋肉痛が翌日に残るなんて考えられなかった時期が、ほんの数年前までは確かに存在したのだがなあ。動物としてのピークを確実に過ぎってしまった、そんな自分が少し悲しい。俺の 10代を返せ!

週が明ければ、就職活動のために東京へ行くことになっている。道中の暇つぶしのため、本屋で何冊か仕入れてこようと出かけたのだが、結局、何も買わずに帰ってきてしまった。帰ってきたところで別に何もやることがないことに気付き、せっかく天気が良かったのだからもう少し出歩いていれば良かったなあ、などと窓から晴天を眺めて恨めしく思う。

さて、全然関係のない話を書く。昨今、市町村の合併が大きな話題になっている。合併してスリムでエレガントな行政にしようとする傾向は歓迎だ。どんどん統廃合してほしい。

ただ、一つだけ気に喰わないことがある。新しい行政区の名称に関してだ。これは合併ではないが、「さいたま市」に代表されるような、極めて頭の悪そうな名称は何とかならんのか。合併にしてもそうだ。合併したなら、その合併した地区を指す代表的な地名があるだろ。どうしてそれを採用せず、新たに名称を募集したりするのだ。

あのな、古来から土地の命名権は天皇の大権なんだよ。愚民どもがアレコレ言って変えられるほど、地名というのは軽々しいものではない。「地名は言葉の化石」といって、非常に大切なものなのだ。戦国末期には、織田信長を嚆矢として、幾つかの有力大名が地名変更を行ったが、それも一過性のものであり、今まで民衆が地名を変更した歴史なんてこの国にはなかった。戦国と明治維新だけが例外であるが、それすら、時の権力者のみが許されたものだったし、新しい時代を作るための必然性もあった。

それが今は何だ。土地の歴史を無視した、当て字や平仮名のオンパレードじゃねえか。ふざけるな。まさか「さいたま市」の市議会議員で「近頃の子供達の漢字能力は〜」なんて言っている奴はいないだろうな。馬鹿もほどほどにしろと言いたい。腹を切れ、腹を。

田中康夫長野県知事が、「信州」という言葉を積極的に使用すると言っている。当然だろう。「長野」と「信州」じゃ、言葉の格が全然違う。「信州県にする」とまで言うと問題があるのだろうが、一般的に長野県を指して信州と呼称する分には、全く違和感がないし、むしろそれが自然なことなんじゃないか。

昨日も義兄達と話していたのだが、昔の行政区分を復活させたらどうか。どう考えても「播磨国風土記」や「出雲国風土記」からの土地を「兵庫」や「島根」と呼ぶのには無理がある。「出雲」と「島根」、明らかに言葉の重みや格調が違うだろう? もしも違いがわからないと言うのなら、それこそ国語教育や歴史教育が誤っている証拠じゃないのか。

流行の新地名を見る限り、取り返しが付かないくらい誤り続けているのは明白だがな。アホばっか。ああ、ヤダヤダ。俺の好きな日本はどこに行ったんだろう。