- 『論理哲学論考』ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン

2007/01/19/Fri.『論理哲学論考』ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン

野矢茂樹・訳。原題は『Tractatus Logico-Philosophicus』。

とかく「難しい」と評判の本である。しかし私はそう思わない。

本書の印象を、「想像していたよりも随分と理解しやすい」と日記の方で書いた。『論理哲学論考』(以下『論考』) は、体系的に番号が振られた短い命題の連続から構成されている。そもそも『論考』の目的の 1つが、「言語によって論理を明晰に表現する」ことにあるため、記述は簡潔で明瞭である。訳注も充実しており、じっくり読めばそれほど難しくはない。

『論考』が言及する分野は哲学、論理学、記号学、数学、言語学などである。私はこれらに興味を持っていたため、多少の準備ができていたのかもしれない。『論考』を読んだのは今回が初めてだが、それまでにウィトゲンシュタインと『論考』の名前は何度も目にしていた。「序」にはこう書いてある。

おそらく本書は、ここに表されている思想——ないしそれに類似した思想——をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。

(「序」)

『論考』が書かれたのは 1918年である。それから 90年後の人間である我々は、知らず知らずにウィトゲンシュタインの思想に触れている。当時の学者に難しかったからといって、現在の我々にとってもそうであるとは限らない。地動説、微分積分、相対性理論、進化論、皆そうである。楽観的にいえば、人類社会は進歩している。「序」の言葉は話半分に考えた方がよろしい。ただ、この手の問題に興味がない人には少ししんどいかもしれない。

以下、私が感銘を受けた命題を引用する。

確率

五・一五三
一つの命題は、それ自体では、確からしいとか確からしくないといったことはない。できごとは起こるか起こらないかであり、中間は存在しない。

確率論については、似たようなことを私も日記に書いた (確率論と「私の場合」)。延々と哲学を否定するようなことを書きながら、なおもこのような命題を考えざるを得ないのは、「私」という主体の問題は最終的に哲学的になってしまうからであろう。『論考』では「倫理」や「幸福」についても触れられる。単なる論理学ではこのような主題はあり得ない。

自然科学・哲学

世界は成立していることがらの総体である。
一・一
世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。
四・一
命題は事態の成立・不成立を描写する。
四・一一
真な命題の総体が自然科学の全体 (あるいは諸科学の総体) である。

要約すれば、「自然科学は事実の全体 = 世界の記述である」となる。引用部分だけでは独特の用語にとまどうかもしれないが、これらは全て順番に定義されている。最初から読めば違和感はない。

四・一一一
哲学は自然科学ではない。
(「哲学」という語は、自然科学と同レベルのものを意味するのではなく、自然科学の上にある、あるいは下にあるものを意味するのでなければならない。)
四・一一二
哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。
思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。
四・一一三
哲学は自然科学の議論可能な領域を限界づける。

二・一
われわれは事実の像を作る。
二・一四一
像はひとつの事実である。
二・一五一四
写像関係は像の要素とものとの対応からなる。
二・一七二
しかし像は自分自身の写像形式を写しとることはできない。像はそれを提示している。
二・一七三
像はその描写対象を外から描写する (描写の視点にあたるのが描写形式である)。だからこそ、像は描写対象を正しく描写したり誤って描写したりすることになる。
二・一七四
しかし像はその描写形式の外に立つことができない。
二・二二四
ただ像だけを見ても、その真偽はわからない。
二・二二五
ア・プリオリに真である像は存在しない。

このあたりはゲーデルの不完全性定理を思い起こさせる。不完全性定理の発表は 1931年である。

言語

五・六
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

この問題については私も何度も日記で書いた (「言説を自動化する仕組み (1)」同「(2)」「メタ・レベルは話者の言語レベルを反映している」など)。言語で思考・認識する以上、主観的な「私」の世界は言語によって規定されてしまう。客観的な世界空間と「私」の関係を考えたとき、いつも最終的にはこの命題に行き着く。

とまあ、引用し始めたらキリがない。残りは日記のネタとして温存しておこう。

巻末には訳者による非常に優れた解説と、充実した索引がつく。『論考』に興味がある人は、解説だけでも立ち読みしてみてほしい。